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アイドルと性をめぐる3つの論点とは? 香月孝史がタブーに切り込む

2015年07月27日 10:50  リアルサウンド

リアルサウンド

AKB48『ヘビーローテーション<Type-A>』

 前回の記事【アイドルの「恋愛禁止」は守り続けるべきものなのか?】で、女性アイドルシーンが抱える「恋愛禁止」という風潮が守られ続けることへの疑念を示した。懸念したのは、あくまで「風潮」だったものが次第にルールとして当たり前に内面化されていくことで、社会一般の倫理観とのズレが進行してしまうことだった。実際、その社会とのズレの臨界点を超えたものとして、前回触れた峯岸みなみの「事件」などはあったように思う。当時、その「事件」直後の反応として印象的だったのは、AKB48ないしは女性アイドルというジャンルを、きわめて反社会的な性格の組織や分野として語る言説だった。あらためて振り返ればそれらの言説の中には、「事件」の衝撃的なビジュアルから導き出されたごく表面的な連想による語り口のものもあった。また、前回書いたように「恋愛禁止」の内実も、単に明確なルールであるという前提で語れるほど単純なものではない。当時噴出した批判の中には、アイドルというジャンルの性質を過度に単純化したうえでの糾弾もあったのかもしれない。しかしそれでも、「世間」との温度差を認識する機会は、アイドルというジャンルのもつあやうさを省みるタイミングになる。ズレに気づかなくなること、反社会的なものとして認知されることは、ジャンルが順調に継続していくうえでもリスクになる。


 そもそもアイドルというジャンルはいろいろな局面で、世間との温度差をはらむものではある。もっとも象徴的なもののひとつには、「AKB商法」という言葉で定着した音楽ソフトの複数購入を促す販売方法があるだろう。この論点に関しては、すでに俯瞰的な分析や相対化も行われているし、ヒットチャートというもの自体が複眼的な指標をもつものとして整備されつつある。ただし、ひとくちに世間との温度差といっても、「恋愛禁止」の場合やや性質が異なる。というのも、その規制がジャンルの実践者自身であるアイドル当人への「抑圧」として受け止められるからだ。さらにいえば、その抑圧が齟齬をきたした結果がすでにいくたびも生じているのが現在でもある。


 アイドルに関して何らかの「抑圧」が働いているというイメージはしばしば議論の的になるが、その「抑圧」はまたいくつかの水準に分けられる。アイドルに関連して「抑圧」という言葉が指し示すうち、もっとも意味の大きいものに、アイドルに対する「性的な視線」のありようにまつわるものがある。「恋愛禁止」という習慣を是とする声の中には、その理由にアイドルというジャンルが「疑似恋愛」を中心とした「性的」な魅力を論拠にするものが多い。とはいえ、そもそもアイドルというジャンルに限らず、芸能において「性的魅力」と「そうでないもの」とは混在することが常だし、その両者を明確に分けることはほとんど不可能だ。その人物の上演する内容が意図的にセックスアピールを表現するものもあれば、意図しない性的魅力が看取されることもある。また、いわゆる疑似恋愛的な視線が向けられるのだとして、それもアイドルというジャンルに限ったことではない。「恋愛禁止」が謳われていようがいまいが、芸能人に性的な魅力が見て取られることも、疑似恋愛的な感情が抱かれることもいくらでもある。芸能としてセックスアピールを行なうこともそこに性的魅力を見出すことも、それ自体は否定されるべきものではない。ある芸能者が見せる上演内容がセックスアピール「だけ」で成り立つことなどありえないし、また主体的なセックスアピール自体を否定することもまた抑圧ではあるだろう。


 また、そうした表現物が「性」にまつわる観点からどのように評価を受けるかも一様ではない。AKB48の代表曲の一つ「ヘビーローテーション」は、蜷川実花によるアートディレクションが“男性の視線”から離れてランジェリーをファッショナブルに着こなすものとして“女性同士”の視点で肯定的に表象される(米澤泉『「女子」の誕生』: 勁草書房)一方、秋元康にインタビューしたCNNのTV番組『Talk Asia』(2012年1月)では、「ヘビーローテーション」の同一のビジュアルが「性的搾取」という文脈で俎上に載せられた。もっとも、この時CNNが問題にしていたのは、それを上演する主体が未成年であることだった。つまり、「未成年に性的な記号をまとわせること」のリスクという、また別の水準のデリケートな論点がここでは問題となる。芸能における未成年の性的なリスクもまた、「アイドル」というジャンルにのみ限ることではないが、アイドルの場合、小学生や中学生段階から活動が始まることも多いため、そうしたリスクは近いところにあるだろう。


 先に示した芸能者のアウトプットに伴われる「性的な視線」全般と、次に示した年齢的に性的な記号をまとわせることが適切かという論点とは、アイドルというジャンルの中で重なりあいながらも水準が異なり、その問題性の有無にはそれぞれ個別の議論も必要になる。そしてまた、これら二者とはもうひとつ違う水準に「恋愛禁止」という「抑圧」は存在している。いま便宜的に三つの水準に分けたが、これらのうちで「恋愛禁止」だけは、アイドルというジャンル内のみに限定された、いわばローカルルール的なものである。さらにいえば、他の二つに比べて「抑圧」を取りのぞく操作――恋愛禁止の解除――が理屈の上ではもっとも容易なものでもある。


 「恋愛禁止」が必要だとする声がしばしばその理由とするのは、アイドルが「疑似恋愛」「性を商品化しているもの」だから、という“事実”による説明だった。たとえば、「恋愛禁止」を解くことについて、「ではアイドルが恋人との親密な関係を公言してはばからない場合、そのアイドルをファンは支持するのか」といったような反論は、一見、ある説得力をもっている。けれども、そこには飛躍がある。「恋愛禁止」とは“恋愛をしない”ことの強制だが、「恋愛禁止」を解くことは“恋愛すること”の強制でもなければ、まして「自身の恋愛を公言すること」の強制でもない。アイドルが「恋愛」に対するスタンスをどのように見せ(あるいは隠し)、アイドルとしてのアイデンティティをどのように位置づけるか、その戦略的な判断を個々人に帰するということにすぎない。それぞれのセルフプロデュースやパーソナリティの発露がアイドルシーンの重要な争点になって久しい今日、そのような個々の戦略には相応のグラデーションが生じるはずだ。さらにいえば、前回の稿でも触れたが、「恋愛禁止」という以前からの風潮に一方で身を委ねながら、他方ではその風潮に杓子定規に従うことなく内側から段階的に骨抜きにしつつ、それでもなお支持を保ってきたのがAKB48という存在ではなかったか。その歩みもまた周到なものではないし、指原莉乃や峯岸みなみら「スキャンダル」に見舞われたメンバーたちの、事後的な立ち回りの巧さによって偶発的にもたらされた結果ではあっただろう。けれども、その歩みが明らかにしたのは、アイドルがパーソナルな場での恋愛をにおわせることが、即座にファンから支持されない理由にはならないという今日の環境だ。そうであるならば、「性の商品化」や「疑似恋愛」にアイドルというジャンルを局限させる必要はない。


 「恋愛禁止」という「代償」をもってでなければアイドルというエンターテインメントの魅力が保たれないという発想は、ある意味でこのジャンルの可能性を低く見積もってしまうことでもある。もちろん、恋愛を禁じるという「風潮」が定着してから、AKB48が(なかば偶発的に)その風潮を一部骨抜きにするまでにも相応の時間はかかっている。すぐに結論を出すことを求めたいわけではない。けれども、あやうさについて考えるのをやめないことは、将来的により気兼ねなくこのジャンルの面白さを享受するための準備でもある。社会からの拒否反応があらわになる瞬間は、その視点を省みるための貴重な契機だ。(香月孝史)