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菊地成孔が語る、音楽映画の幸福な10年間「ポップミュージックの力が再び輝き始めた」

2015年07月26日 17:41  リアルサウンド

リアルサウンド

菊地成孔

 音楽家・文筆家であり、独特な語り口の映画批評でも高い支持を得る菊地成孔。自身のブログや雑誌、『菊地成孔の粋な夜電波』(TBSラジオ系列)での語りも注目されるなか、今年は音楽の観点から映画を語った自著『ユングのサウンドトラック 菊地成孔の映画と映画音楽の本』(イースト・プレス/2010年)の文庫版や第二弾の発売も決定している。音楽映画を追い続けてきた菊地によると、この10年間は劇映画/ドキュメンタリーを問わず秀作が多数登場する“幸福な時代”であったという。その背景には一体何があるのか? 「リアルサウンド映画部」のスタートを機に、今回ロングインタビューを敢行した。前編では、音楽映画の潮流や、転機だと感じられた作品、音楽映画が社会にもたらす影響まで、じっくりと語ってもらった。


■21世紀に入って突然訪れた、音楽とドキュメンタリー映画の蜜月


 この10年は音楽映画の黄金期と言っていいと思います。劇映画に限らずドキュメンタリー映画も豊作で、これは21世紀に入って“20世紀の偉人”が描かれるようになったことが大きい。20世紀のうちは同時代すぎて描けない、あるいは描かないという漠然とした倫理、禁則のようなものが映画界にあって、偉人と言えばいきおいモーツァルト(『アマデウス』/1984年)みたいなことにならざるを得なかった。中世の人だと資料が少なくて、そのぶん好き勝手というかファンタジックには描けるけれど、史実的な側面は弱かったんです。


 で、21世紀の訪れとともに、そんな縛りが楽にほどけた。『グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独』(2009年)もそうだし、ジャズ界では誰もが知っているけれど、外野は誰も知らなかったミシェル・ペトルチアーニみたいな人まで映画(『情熱のピアニズム』/2011年)になり、そうした作品は、われわれが20世紀に見聞きしたものよりもはるかに豊かで。音楽以外でも、世界的なシェフ=フェラン・アドリアの『エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン』(2011年)や『イヴ・サンローラン』(2014年)など、次々に秀作が生まれていますね。ポピュラーミュージックと言わず、クラシックと言わず、20世紀には巨人がたくさんいて、しかも旺盛にテレビに出たり、ドキュメンタリーフィルムを撮ったりと資料が豊富にある。家族や関係者が存命でインタビューも取れるから、精神的にも技術的にも資料的にも宝の山で、非常に作りやすいんです。


 もっとも、近しい人がかかわることのデメリットもあって、チャーリー・パーカーを描いた『バード』(1988年)なんかはクリント・イーストウッドが監督をつとめたにもかかわらず、妻のチャン・パーカーと盟友ディジー・ガレスピーが口を挟んだから、脚本が相当いびつなものになっている。フォーシーズンズの『ジャージー・ボーイズ』(2014年)も音楽映画としては本当にすばらしいんだけれど、メンバーが全員存命してるから暗黒面は描かせなかった。そんな急所はありつつも、精緻に、愛情を持って製作されていて、“伝記映画を観るとみんな出来がいい”という時代が突然訪れたんです。


■徹底した時代考証がデフォルトに


 もうひとつのポイントは、劇映画/ドキュメンタリーを問わず、時代考証が飛躍的に向上したこと。音楽なら、当時どんなスタジオを使っていて、どんな風にレコーディングして、マイクはこんな感じ、ブースはこんな感じ…という、機材的な考証に隙がなくなりました。それまでは、専門家の立場から観るとけっこういい加減だったんですよ。音楽以外のジャンルもたぶん同じで、例えば戦争映画でも「ここでこんな兵器は使ってねえだろ」みたいなことが、往々にしてあったと思う。


 それがある時期から、ゴリゴリに検証されるようになった。なんというか、「イギリス軍の戦車にナチスの旗を貼ってドイツ軍の戦車にするんだ!」みたいな、牧歌的で懐かしい時代が終わって(笑)。全世界的にオタク化したというか、どの分野にもマニアが増えてきて、緻密に考証するとともにモノもそろうようになってきた。徹底的に考証して精密に再現するという仕事がハリウッドのセクションの中にあるべき、という機運も生まれて、専門家をして「ヤバイ」と言わしめるレベルにまで至ったんです。


 それがいちばん顕著に表れるのが、おそらく音楽映画のレコーディングシーン。20世紀まではなんとなく雑な感じだったけれど、00年代前半くらいから描写のレベルがグッと上がりました。僕が最初に変化を感じたのは、『キャデラック・レコード ~音楽でアメリカを変えた人々の物語~』(2008年)。伝説的なレコードレーベル「チェス・レコード」と所属アーティストたちを描いた実質上の評伝で、ビヨンセが製作にも参加しています。


 これがスゴくて、当時の建物や衣装、スタジオセットもめちゃくちゃ精巧に再現されている。それは「おお、こうしてマイクを立てて、こうやって録音していたのか」と、感心するレベルのものでした。見せかけのインチキなものではなく、多数の資料にもとづいているのだろうという力強さがあって、今のハリウッドでは考証にそこまでこだわることがデフォルトになっています。全体の出来とは無関係に、ディティールは急激によくなり、あいまいな部分がなくなった。考証がしっかりしていれば、それだけで観ていて背筋がシャンとしますね。


■失われた“アメリカの誇り”とポップミュージック


 そうした背景もあるなかで、アメリカで00年代前中盤あたりから、失った誇りを取り戻すように「この国にはポップミュージックがあるぞ」と世界に示す作品が勃興してきます。例えばモータウンの初期やザ・スリー・ディグリーズを描いた『ドリームガールズ』(2006年)、先ほどの『キャデラック・レコード』もそうですが、「20世紀のアメリカのポップミュージックは単なるドーナツ盤、子どものおもちゃじゃない。世界的な文化遺産なんだ」と。


 そもそもアメリカのポップミュージックは、移民とマイノリティの国だという土台の上で生まれている。だから、1920年代末期のハリウッドミュージカルから2000年代のダンスミュージックまで、“チャラい”ヒット曲のなかにも、人類が路頭に迷ったときの答えがあるんです。自分がマイノリティだと感じたとき、マイノリティであることに誇りを持てる要素が、メロディーに乗っている。社会情勢と音楽とのかかわりを振り返っても、アメリカは大恐慌をミュージカルという処方箋で乗り越えました。世の中がもうめちゃくちゃで、明日なき世界だというときに、MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)のミュージカルがアメリカ人を勇気づけた。2000年代は当時に比べればいくらかマシですが、せっかく黒人のオバマが大統領になったのに、差別はなくならないし、サブプライム危機で格差も広がるというひどい状況で、ポップミュージックの力が再び輝き始めたんです。


 僕はその極点が、TVドラマの『glee/グリー』(2009年~2015年)だと思うんですよ。田舎の高校を舞台にグリークラブ(合唱部)が奮闘するさまを描いた作品だけれど、本来アメリカでは、女子ならチアリーディング部、男子ならフットボール部がイケていて、グリークラブはどうしようもないやつが入る、ダサいものだとされている。そんなグリークラブの子たちが、マドンナやレディー・ガガというポップミュージックを見事に歌う――最初は単にそのギャップが面白がられているという感じだったのが、段々とそういうレベルでは収まらないほど、評価が高まっていきました。僕もDVDを全セット購入して、観るたび泣いてるんですけど(笑)。


■『glee/グリー』が象徴する幸福な10年、その先は?


 この『glee/グリー』を筆頭に、近年は本当に多くの優れた音楽ドラマ/映画が生まれたんじゃないかと思います。フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」の作者、クロード・フランソワを扱ったフランス映画の『最後のマイ・ウェイ』(2012年)も見事な出来だったし、バーで歌っていた女性と音楽プロデューサーの出会いと運命を描いた『はじまりのうた』(2013年)も素晴らしかった。今年公開される続編が本国でとんでもないヒットを記録している『ピッチ・パーフェクト』(2012年/日本公開は2015年5月より公開中)のような“ピッチ”と“ビッチ”を引っ掛けたお子さま向けの映画も、観てみれば合唱の素晴らしさを感じて「オゲレツでエロくてもいいじゃないか!」と思わされたし、この10年は凡作が本当に少なかったんです。


 この10年、ポップミュージックは一時期のゴスペルのように、ほとんど宗教のような強さを持って人々に力を与えてきました。死にたい人に生きる希望を与えたり、ともすれば消えてしまいがちな愛というものに着火したり。性的なマイノリティ、民族的なマイノリティ、あるいは「自分はダメなんだ」と思ってしまう神経症的なマイノリティズムを持った人たちが、音楽を聴き、歌い、踊ることでどんどん浄化されて、“愛されないし愛していない”状態から、“愛し愛される”状態になる。それは僕が音楽家として追求してきたことのコアだから、自分のイズムにも合っていたし、音楽映画全体と歴史から見ても「幸福な10年」と語られるときが来るかもしれない。


 ただ、悲観的にも楽観的にでもなくフラットに捉えた場合、音楽が持つ力はそれだけではない。つまり、人を狂気に誘ったり、悪用したりもできる。今後はそういう音楽のダークサイドを扱う作品も出てくるんじゃないかという予感がしていて。実際、自身のブログで書いた記事が散々話題になってしまった『セッション』(2014年)は、音楽映画が曲がり角に入ったことを告げる作品だったと思います。(後編に続く)(取材・構成=リアルサウンド映画部)