トップへ

「97世代」が音楽を豊かにするーー降谷建志、TRICERATOPS、GRAPEVINEのアルバムを聴く

2015年07月20日 15:50  リアルサウンド

リアルサウンド

降谷健志『Everything Becomes The Music』

・『Everything Becomes The Music』と降谷建志の優しさ


<勇気を持ってかかげた誓い 鼻で笑うように流れる世界 駆け抜けよう共にこんな時代 塗り替えるのは君達(きみら)の世代>


 1999年にリリースされたDragon Ashのアルバム『Viva La Revolution』の表題曲である「Viva La Revolution」。降谷建志はこの曲をライブで披露する際に、いつからかオリジナルの歌詞である<塗り替えるのは僕達(ぼくら)の世代>を<君達(きみら)>と改変して歌うようになった。革命の主体者として雄叫びをあげる立場から、次の世代の自立を促す立場へ。もちろん本人にとって「前線を退く」というような気持ちは毛頭ないはずだが、日本の音楽のあり方を自ら変えてやろうと血気盛んだった10代の頃と比べるといくぶん肩の力は抜けたのかもしれない。


 直訳すると「すべての物事は音楽になる」というタイトルが冠せられた降谷建志にとって初のソロアルバム『Everything Becomes The Music』には、そんな彼の自然体の姿がパッケージされている。PCの起動音からこのアルバムが始まるという構成は、どんな生活音でも音楽になり得るというメッセージであるとともに、今作が非常にプライベートなモードで作られことを示すメタファーであるとも言える。全ての演奏からレコーディングに至るまでをたった一人でこなした本作は、降谷建志というアーティストにとっての「生理現象」のようなものなのだろう。呼吸をするように、睡眠をとるように、いつでも自身のスタジオに通って作り上げてきた音楽。先行リリースされた「Swallow Dive」「Stairway」を筆頭に、リズムセクションの上でギターが鳴り、そこに彼の歌が乗るというとてもストレートな(それゆえミュージシャンとしての本質が問われる)構成の楽曲が揃っているのが何よりの証左だろう。


 『Everything Becomes The Music』全体を通して醸し出されているのは、「優しさ」や「美しさ」である。オーディエンスの血を沸騰させるために「攻撃性」や「破壊力」が求められるDragon Ashの音楽の中でいわばスパイスとして機能していた要素が、パーソナルな世界が展開される今作では前面に押し出されている。数多の名曲を生み出してきた降谷建志のセンチメントとメロウネスが完全解禁されたこのアルバムに対して、いまだに「Viva La Revolution」を生で聴くと涙が止まらなくなってしまう僕としてはこう言わずにはいられない。「こんなKjの音楽が聴きたかった!」と。


・絶好調、97年組の生き残り


 Dragon Ashがメジャーデビューを果たした1997年の音楽シーンにおいては、小室哲哉ブームがいまだ続く中において「ロックバンドへの期待感」が確かに存在していたように思える。Mr.Childrenとスピッツのセールスがモンスター化し(ミスチルはこの年の3月で一旦活動を休止)、さらにはウルフルズ、THE YELLOW MONKEY、JUDY AND MARYといった面々のブレイク。今となってはレジェンド的な位置づけの顔ぶれがひしめく90年代半ばにおいて、たくさんの若手ロックバンドが表舞台に登場した。そんな97年デビュー組において今でも第一線で活動を継続しているバンドの代表格がDragon Ashであり、そしてTRICERATOPSとGRAPEVINEである。


 Dragon Ashが初期衝動的な音を鳴らしながら強面な感じで登場したのに対してこの2つのバンドの佇まいはいたってカジュアルだったが、一方でその音楽的バックグラウンドにはある種の「渋さ」も合わせ持っていた。ビートルズなどのスタンダードなロックを下敷きにしながら、3ピース編成でディスコビートを大胆に取り入れた「Raspberry」でデビューしたTRICERATOPS。また、マーヴィンゲイの曲名からとったバンド名の通り、GRAPEVINEの音楽には単にキャッチーなだけではないブラックミュージック由来の粘っこさが包含されていた。


 同期でもある降谷建志が初のソロ作で新境地を示したように、この2つのバンドも今まさに「脂の乗り切った状態」にある。それを端的に表しているのが、昨年末にリリースされたTRICERATOPS『SONGS FOR THE STARLIGHT』と今年1月リリースのGRAPEVINE『Burning tree』である。


 オリジナルアルバムとしては約4年振りのリリースとなったTRICERATOPS『SONGS FOR THE STARLIGHT』は、ロックとしての迫力とポップスとしての完成度が共存している作品である。印象的なギターのリフのイントロからベース主体のAメロに流れる展開とサビのキャッチーなメロディが「これぞトライセラ!」という感じのロックナンバー「スターライト スターライト」、BPMが速くなくても腰を揺らしたくなってしまうスイートな「PUMPKIN」などバラエティ豊かな収録曲からは、昨今では単に元気に盛り上げるだけのものを指すようになりつつある「踊れるロック」という概念を改めて定義し直すかのような気概が感じられる。


 GRAPEVINE『Burning tree』は、掻き鳴らされるギターとサビで炸裂するシャウトが気持ちよい「empty song」やトリッキーな展開の「MAWATA」など、ここ数作においても特に開放感のある楽曲が並んでいる。複雑なアンサンブルを挟みながらも「せわしない」「ごちゃごちゃしている」といった要素を微塵も感じさせない雄大なサウンドプロダクションは、一朝一夕に真似できるものではない。


 降谷建志『Everything Becomes The Music』、TRICERATOPS『SONGS FOR THE STARLIGHT』、GRAPEVINE『Burning tree』。昨年1月にリリースされたDragon Ash『THE FACES』も含めて、最近の「97世代」の作品にはここまで積み上げたキャリアに安住しない瑞々しい魅力が詰まっている。年輪を刻みながらもどんどんピュアになっていくかのような彼らの年の取り方は、ロックミュージシャンとしての理想的な姿なのかもしれない。


・「狭間の世代」が担保するシーンの豊かさ


田中「まあ、やっぱり僕らは狭間の世代なんですよ。僕らがバンドを始めた時代っていうのは、バンドでやっていくとなると、もうアマチュアかメジャーデビューか、その二者択一だった。でも今はもっとやり方が多様化してる」


和田「そうだな……確かに自分たちが狭間の世代だなっていうのはすごく思ってます」


(RealSound トライセラ和田×バイン田中が語る、ロックバンドの美学(後編)「音楽にはセクシーさがすごく大事」より http://realsound.jp/2015/01/post-2186.html


 TRICERATOPSとGARPEVINEのそれぞれのフロントマン、和田唱と田中和将は自分たちのことを「狭間の世代」と称している。ここでの発言の意図は最近の若いミュージシャンと比較した場合というものではあるが、もっと短いスパンで区切った話でも97年デビューの彼らは「狭間の世代」と言える立ち位置のように思える。


 J-POPという呼称の元でCD販売が産業として一気に巨大化し始めた90年代前半と、過去最高のCD売上を記録する中でゼロ年代以降の音楽シーンの方向を決定づける数々の才能が見出された98年。Dragon Ash、TRICERATOPS、GRAPEVINEの「97世代」はこの2つの時代の狭間にメジャーデビューを果たした。


 くるり、ナンバーガール、スーパーカーという「98世代」が現在の日本のロックシーンのいわば始祖として様々な形で引き合いに出される一方で、「97世代」に対する言及は思いのほか少ない印象がある。それはもしかしたら、バンドとしての生き様によるものかもしれない。Dragon Ashは時代の空気を一身に背負いすぎた結果ロック云々というスケールでは語るのが難しい存在になったし、TRICERATOPSとGRAPEVINEはどちらかというとシーンの流行り廃りとは関係なく(バンドとしての紆余曲折はありながらも)淡々とキャリアを積んできた。また、実は最近のロックバンドとの音楽的な接点が見つけづらいという側面もあるかもしれない。Dragon AshのミクスチャーサウンドやGRAPEVINEが放つ渦のような音の世界を表層的な意味ではなく継承できているバンドはあまり見かけないし、TRICERATOPSの「踊れるロック」と現状主流になっている「四つ打ちロック」は特にリズムの強度・バラエティにおいて大きく異なるものである。


 次から次に「期待の新星」が登場する中で、当たり前のように長く続いているバンドの存在感というのはともすれば希薄になりがちだ。自分のリスナーとしての態度を振り返ってもついつい新しいバンドを追いがちになるし、その結果として「最近のロックバンドは自分には合わない」などと悪態をつきたくなる瞬間もある。ただ、ほんの少しだけ視線をずらすと、自分が年を重ねているのと同じように大人になったロックバンドが「懐メロ」には陥らないロックを鳴らしている。


 最近、とある報道番組で「日本の音楽の多様性が失われている」という切り口での解説を目にすることがあった。このメッセージには様々な観点からの反論が可能だが、僕は2015年における「97世代=狭間の世代」の充実を反証材料として提出したいと思う。20年近く前に「期待の新星」だった面々の弛みない歩みが、今の日本のポップミュージックの深みと豊かさを支えているのだ。(レジー)