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松隈ケンタ×木之下慶行が明かす“コンペ必勝法” 「イントロはエゴを抑え、とにかく短くするのが大事」

2015年07月13日 20:31  リアルサウンド

リアルサウンド

木之下慶行(左)と松隈ケンタ(右)。(写真=竹内洋平)

 音楽を創る全ての人を応援したいという思いから生まれた、音楽作家・クリエイターのための音楽総合プラットフォーム『Music Factory Tokyo』が、木之下慶行(以下、木之下)と、松隈ケンタ(以下、松隈)による対談記事を公開した。


 同サイトは、ニュースやインタビュー、コラムなどを配信し、知識や技術を広げる一助をするほか、クリエイター同士の交流の場を提供したり、セミナーやイベント、ライブの開催など様々なプロジェクトを提案して、未来のクリエイターたちをバックアップする目的で作られたもの。コンテンツの編集には、リアルサウンド編集部のある株式会社blueprintが携わっている。リアルサウンドでは、今回公開された対談の前編を掲載。同記事では、AKB48やさんみゅ~、アイドリング!!!の作編曲を手掛け、Sonar Pocketではサウンドプロデューサーとしても活躍する木之下と、でんぱ組.incやEspecia、中川翔子などの作編曲を手掛け、BiS、BiSHでは全曲のサウンドプロデュースを務めた松隈という同学年の2人が、それぞれ音楽を始めたきっかけや、バンドとしてのキャリアと音楽作家に転身した理由、そしてコンペの必勝法について語り合ってもらった。


・「初めからバンドでプロになろうと思っていた」(木之下)


――同い年の2人ですが、それぞれ音楽を始めたのは何歳くらいなのでしょうか。


松隈:僕は高校1年生です。中学生の時は周りがやっているのを見ていただけなのですが、高校への合格祝いとして、母ちゃんにジャンプの1番後ろにある通販ページの『ギター初心者5点セット 1万9800円』みたいなのを買ってもらったのが始まりでした。


木之下:僕は幼少期から演歌とピアノを習っていたのですが、どうしてもギターが弾きたくて、小学校6年生の時にギターを買ってもらっていました。当時はギター教室に通ってグループレッスンを受けていました。


――当時はどんな曲を聴いたりコピーしたりしていたのでしょうか。


松隈:当時流行っていたのはJUDY AND MARYだけど、僕はZIGGYや布袋寅泰さんのコピーをしていました。あとは高校に入ってからレッド・ホット・チリ・ペッパーズやボン・ジョヴィ、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンなどの洋楽ロックやメロコアっぽいポップスにもハマっていきました。でも僕の場合はあまりジャンルで聴くことはなくて、エリック・クラプトンも大好きでしたよ。


木之下:同じく洋楽は高校に入ってからでしたね。僕の場合はメタリカのコピーもしていました。それまではBOOWYやX JAPANをコピーしていて、とくにhideさんのギターが大好きでした。


――それぞれバンドマンとしてのキャリアもありますが、実際に初めてバンドを組んだのは?


松隈:僕の場合は、ギターを始めた時点で組みました。あとは「お前ボーカルやれ、お前顔がドラムっぽいからやれ」とか、そんなノリですよね。学園祭やライブハウスで演奏したいという気持ちがあったのですが、いざ学園祭でボン・ジョヴィやMr.ビッグのコピーをやってみても、全然盛り上がらなくて。当時対バンで出会った女の子バンドから「ギターがいないだけど、あんたが手伝ってくれるならライブに出るよ」と言われたので、ジュディマリのコピーバンドにも参加しました。いざそのバンドでライブをやったら、メンバーが50~60人くらい女子高生を集めてきて、めちゃくちゃ盛り上がったんですよ。その瞬間に僕は速弾きを辞めました。「やっぱJ-POPだ!」って(笑)。


木之下:早いですね(笑)。僕が初めてバンドを組んだのは高校2年生の時で、コンテストに出るために組みました。最初はコピーでしたけど、次第にオリジナルとコピーを混ぜるようになりました。松隈さんと違ってそこに気付くのが遅かったので、ずっとハードロックをやっていましたが(笑)。松隈さんはいつオリジナルを?


松隈:当時のバンドでベースを弾いていた女の子がすごく下手で、1弦と4弦を逆に張るような人だったんですよ。


木之下:寝ぼけていたらたまにありますよね。


松隈:それはギターの話でしょ? ベースは4弦しかないのに(笑)。で、JUDY AND MARYの曲はベースが難しかったので、コピーができるように特訓してもらうより、こっちが簡単な曲を作ってあげたほうがいいという話になり、ライブで披露したら大ウケで。「作曲家になるべきじゃないか」と思ったのもこの頃です。


――具体的にプロを目指したのはいつ?


木之下:僕は、初めからバンドでプロになろうと思っていたんです。だからコンテストでも一応、広島ブロックで優勝して、中国ブロックまで出たのに解散しちゃって。これからどうしようと思っていたところに学校の案内が来て、大学に行ったんですけど、やっぱり曲作りがしたいと思い、今に至ります。


松隈:僕は真逆で、別にプロになろうと思っていなかったんですけど、バンドのメンバーが「音楽で飯を食いたい」って言っているのはカッコいいと感じていて、その影響からか、現在までそういう感覚が続いているだけなんですよね。だからバンドで続けていくことにこだわりはなくて、最初はレコーディングエンジニアになりたかったから、学生時代のバイト先だった楽器屋に就職しました。そこはリペア(修理)とPA業も並行していて、すごく勉強になりました。


・「一聴するだけでその手抜きってハッキリ分かる」(松隈)


――レコーディングエンジニアという職業にピンポイントで憧れた理由は?


松隈:エンジニアというわけではないですが、亀田誠治さんですね。椎名林檎さんの音源を聞いたときに、良い意味で決してきれいではないのに、突き抜けているミックスを聴いて、音自体にものすごく魅力を感じ「もっと勉強したい」と思いました。そして、会社勤めをしながらこっそり東京のスタジオにメールを送っていたら、22~23歳のとき、某大手スタジオから呼び出されて。当時は仕事もしていたので、何とか合間を縫って通っていたら、そこで「すぐに働くことはできる?」って訊かれたんです。でも、それはその時働いていた会社に筋が通らないのでお断りさせていただきました。アシスタントエンジニアの応募って、だいたい25歳くらいまでなので、そこまではバンドでプロを目指して、ダメだったらエンジニアになろうと決意したんです。で、ちゃんと25歳でメジャーデビューが決まった。


木之下:僕は作曲・編曲などの仕事を貰っていたんですけど、食べていけなくて、着ボイスを録る仕事や、カラオケのMIDIを打つ案件をこなしたりしていました。その後、FENCE OF DEFENSEの西村麻聡さんと知り合って、彼のもとでまたJ-POPやゲーム音楽を作ったりしているうちに、「変なプライドは捨てよう」と思えるようになり、コンペファイターとしての忍耐の日々が続きました。それが24~25歳くらいですね。


松隈:僕は25歳でメジャーデビューしたものの、全然売れず……。2~3年でバンドは解散し、当時所属していた事務所が作家のマネジメントもしていたので、スタッフに「バンドがダメでも音楽で食べていきたい」と相談したら、まずは曲を沢山作れと言われましたね。


――コンペで戦う時期は、大抵の作家に訪れる試練の時期ですよね。2人はそれを勝ち抜いたからここにいるのだと思いますが、そのために行っていた工夫などがあれば教えてください。


木之下:決まる・決まらないは関係なく、とにかくたくさん作ることと、出したことを忘れること。作っていくと、自分の癖や色が分かってくるので、勝負はそこからだと思うんです。


松隈:具体的なところだと、周りから「良いね」って言われた音は何回でも何十回でも使えば良いし、イントロはとにかく短くするのが大事。最初ってとにかくカッコいいイントロを付けようとするし、そこにミュージシャンのエゴが出るから長くなりがちなんですけど、コンペだと何百曲と集まってくるから、それを聴いてくれる余裕はないです。実際にその光景を若手のときに見ていたので、自分はそうならないように、あえてイントロを短くしていました。


木之下:僕がこだわっているのは、とにかくやりきること。昔は「数撃てば当たる」という気持ちでいたんですが、さっきも言ったように、自分の色が見えてきたら、狙いを定めて打つようにする。クライアントからの発注書って、そのまま鵜呑みにするとみんなと同じものが出来てしまうので、まずはじっくり「この人はどういうことを求めているんだろう」と考える。それが決まったらなるべく手は動かしつつ、じっくり作り込みます。どんなに時間がなくても、手は尽くして「この曲の雰囲気はこれでちゃんと伝わる」という段階までは粘るようにしていますね。あと、アレンジはしっかりやった方がいいと思います。少なくともメロディーだけ、コードだけで提出するより、採用される率は間違いなく上がると思います。


松隈:そこに性格が出ますよね。「どうせ後で誰かがアレンジをやるだろう」とか、「後で生ドラムを入れるから、リズムは大味の打ちこみでいいや」と思いがちなんですよ。でも、それをもらった側からすると、一聴するだけでその手抜きってハッキリ分かるんです。ミックスでも「ノイズが乗りっぱなしだけど、エンジニアが消してくれるだろう」という音はハッキリ分かるし、フェードアウトも雑なものがあったりする。そこを1番きっちりやるべきだと、僕は思うんですけどね。


――もう今は「エンジニアの仕事もとってしまおう」というくらいの気概が必要なのでしょうか。


松隈:そうでしょうね。歌詞も<ラララ~>とかじゃなくて、ちゃんと世界観を入れる。クライアントが世界観を定義することは多いから、そのニーズに合ったものは必ず書くし、そこに「どうせ作詞家が書き直すだろう」という手抜きは入れてはいけない。


木之下:僕、歌詞が苦手なんですよね。もちろん、しっかり世界観を踏まえて仮歌詞を入れますけど。


松隈:それは僕も同じですよ。仮歌詞も一発で通るというより、曲が通ってから「この歌詞をブラッシュアップしてください」と言われて微調整したりします。


(取材・文=中村拓海)


後編【「作家として目指すなら最低限パッケージングに耐えうるものを」松隈ケンタと木之下慶行が語るプロデューサー目線の作家音楽(後編)】へ続く