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フランク・ザッパの知られざる“変態伝説”ーー市川哲史が綴る親子ザッパ録

2015年07月13日 10:50  リアルサウンド

リアルサウンド

市川哲史『誰も教えてくれなかった本当のポップ・ミュージック論』(シンコーミュージック刊)

 先月中旬、2兆円超の最終利益をあげる日本のトップ企業・トヨタ自動車で初の女性役員で、しかも米国人のジュリー・ハンプシャー常務役員が逮捕された。


 逮捕容疑は、医療用麻薬のオキシコドンを郵送で輸入した麻薬取締法違反。マイケル・ジャクソンも依存症だったほどの、モルヒネ超えの鎮痛剤らしい。


 言うまでもないが、彼女が有罪だろうが無罪だろうが、背景に何があったのかとか無論どうでもいい。結局、起訴猶予処分で終わったけども関係ない。私が惹かれたのは、事件を報じた『週刊文春』7月2日号掲載記事の以下の部分なのだ。


「彼女はジミ・ヘンドリックスのファン。また、ドラッグ文化の旗手であるハンター・トンプソンの名言をリツイートしている。彼女が住んでいたロスのマンハッタン・ビーチはサーファーにとっての憧れの海であり、西海岸のセレブには、ドラッグなどのヒッピー文化に理解がある人も多いのです」(ニューヨーク在住の日本人記者)


 他にも、ツイッターのプロフィールに載せているのはキャサリン・ヘップバーンの「全てのルールに従っていたら、全然愉しくない」という言葉――とかいかにもな情報たちが並べられていて、可笑しい。


 未だに世間のイメージは、<ジミヘン・ドラッグ・ヒッピー文化>の三題噺なのか。まあ映画『JIMI:栄光への軌跡』が今春公開されたりで旬なのかもしれないが、そもそもジミヘンはドラッガーだったっけか。1970年に27歳で逝った死因は、酒とバルビツール酸系睡眠薬を併用した睡眠中に、嘔吐による窒息死。


 まああの時代のロックだからサイケデリックとLSDが表裏一体ではあるけれど、ジミヘンはマリファナ程度でコカインなど注射系ヘヴィー・ドラッグは一切無縁だったという。ジミヘンパパによれば、「ジミは子供の頃から注射が大嫌いだったから」。


 米国産親馬鹿。


 20世紀後半、フランク・ザッパという「ものすごい」アーティストがいた。


 52歳の生涯だったが、その生活の大半がツアーかリハーサル。で演奏曲の大半を新曲やインプロや発展形なので、必ずマルチを回して商品化。結局作品数は100アイテムに迫り、死後もなおお蔵出し音源が尽きない。


 その「これがロックだ」と言い張ればなんでも通ってしまうであろう音楽性はとにかく自由で、ドゥーワップにゴスペルからジャズや現代音楽にまでその範疇を拡げつつも、コマーシャルでアヴァンギャルドなスタイルは珍味同様、癖になったら最後だ。米国の政治や風俗、キリスト教原理主義者の問題点を徹底的におちょくる、ナンセンスでスケベな歌詞もまた然り。もしも私がサブカル好きの米国人に生まれてたら、いまの5万倍ザッパを愉しめたに違いない。「ものすごい」のである。


 そしてギターのスキルも「ものすごい」。だからローウェル・ジョージにテリー・ボジオにエディ・ジョブソンにエイドリアン・ブリューにジョージ・デュークにスティーヴ・ヴァイにチェスター・トンプソンに……とにかくザッパ・バンド出身者もすべて達者で「ものすごい」。


 あとは各自ググってください。いろんな意味で「ものすごい」から。はは。


 そのフランク・ザッパの息子、ドゥイージル・ザッパと何度か逢ったことがある。彼も達者なギタリストで、父ザッパ没後はゆかりの連中と《ZAPPA PLAYS ZAPPA》世界ツアーを演ったりとこれまた半端ない。


 しかし1991年だったか初めて逢ったときの彼は、いかにも西海岸な長髪イケメン――なのに線がやたら細く、残念な空気もぶんぶん漂っていた。しかも父親譲りの奇天烈な作品をまだ若いのに完成させてるというのに3年後、なぜか矢沢永吉全国ツアーのバックバンドの一員として、3ヶ月も滞日するという何とも言えない若者なのであった。


 某「単なる普通の」ビジネスホテルの、彼が宿泊している部屋にドゥイージルを訪ねる。狭い。しかもインタヴューを始めると突然、ユニットバスからバスタオル一枚の父ザッパ瓜二つの大男が現われたのだから、そりゃ驚く。


「たまたま日本に遊びに来てる弟のアーメット・ザッパだよ」


 その前年の夏、母ザッパ&妹ザッパと初の日本観光に来た弟ザッパは、<六本木で親切にしてもらった日本人の女の子>に再会するため単身来日したものの、金欠で兄の部屋にこっそり密航しているらしい。おまえらはバンギャかこの野郎。


 さて息子ザッパに訊きたいのは当然、偉大すぎる変態親父ザッパに関する逸話だ。つつくとやはり出てくる出てくる。


 まだドゥイージルが生まれる1969年以前の話だ。夜遅く、父ザッパ不在のビバリーヒルズのザッパ邸を警官が訪ねる。「不審者が廻りを徘徊している」と聞いた母ザッパがそっと外の様子を窺うと、門柱に立小便中のジミヘンなのであった。後に彼女は、息子ザッパにジミヘンのナニが大きかったことを、なぜか事ある毎に自慢したがったらしい。


 ちなみに家に立小便をかましながらも、父ザッパに可愛がられたジミヘン。彼はジミヘンの魅力を、「知的好奇心に裏打ちされた猥雑性」と評したほどだ。


 67年当時のザッパ・バンド《マザーズ・オブ・インヴェンション》のNY公演を訪ね、父ザッパが駆使するエフェクター類に心奪われると、後にジミヘン・ギターの代名詞となるワウワウペダルの購入を決意した――とのまことしやかな伝説まである。


 ただスタジオでレコーディング・セッションも何度か実現しているが、残念ながらほとんどが未発表の憂き目を見ている。ちなみにジミヘンがステージで燃やしたストラトキャスターを、本人から父ザッパは贈呈されているのであった。


 実際、面識もないのにリスペクトの一念のみで父ザッパを訪ねてくるミュージシャンたちが、後を絶たなかったらしい。中でもドゥイージルが最も感激したザッパ家の訪問者は、エディ・ヴァン・ヘイレンだった。


 息子ザッパがギターを始めたばかりの1981年、まだ12歳だ。ある日の放課後家でVH『炎の導火線』収録の超絶インスト曲「Eruption」のコピーに果敢に挑んでいると、「没落したドイツの伯爵みたいな苗字の怪しい男から電話なんだけど、どうする?」と受話器を持ったままの母ザッパ。「ええ!?」


 胸騒ぎに急かされ電話を代わると、「エディ・ヴァン・ヘイレンといいます」。


 20分後、呆れる母ザッパを尻目に狂喜乱舞する息子ザッパの前に、『暗黒の掟』のジャケと同じジャンプスーツ姿のエディが現われたのだった。


 後日、学校の文化祭(みたいなもん)でバンド演奏する息子ザッパが前日リハをしていると、エディが出現。居合わせた学校中の生徒が発狂する中、彼はPAミキサーを買って出たばかりか「Runnin’with the Devil」のソロ・パートを手取り足取りで教えてもらったという。おいおい。


 憧れのギター・ヒーローとの邂逅を心底嬉しそうに語る息子ザッパに、当時の同級生たち同様、もはや嫉妬する気力すら湧かぬ私であった。前述のジミヘン燃え焦げギターも我が物顔で弾いてたな。ああ、素晴らしき哉七光り。


 実はジミヘンが死んだのもドゥイージルが生まれたのも、同じ1969年9月だ。二人の命日と誕生日が完全一致すれば、この風桶話の説得力も増すというもんだが、1969年9月18日没と1969年9月5日生。


 世の中そこまで上手くできてはいないのだ。(市川哲史)