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乃木坂46のドキュメンタリーが描く「アイドルであること」の意味 AKB48版との比較を通して読み解く

2015年07月11日 17:11  リアルサウンド

リアルサウンド

(C)2015「DOCUMENTARY of 乃木坂46」製作委員会

 「アイドルのドキュメンタリー」は、過酷さや苦悩を映し出す。今日、そんなイメージが強調されがちなのは、いうまでもなくAKB48のドキュメンタリー映画群の影響によるところが大きい。高橋栄樹監督による一連の作品は、AKB48が抱える過剰な負荷や不条理に肉薄したことでファンの外にまで届く話題性を獲得し、さまざまに議論の種にもなってきた。


 けれども、実のところAKB48が提供するドキュメンタリー映画が、はじめからそのようなルックを持っていたわけではない。高橋栄樹体制になる以前、2011年1月公開のAKB48ドキュメンタリー映画第1作『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued 10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?』(監督:寒竹ゆり)についていえば、AKB48の「過酷」イメージをさほど担うものではなかった。その映像には今日AKBのドキュメンタリーと聞いてイメージするほど過酷で理不尽な何かが映されてはいなかったし、ドキュメンタリー用にあらためて撮影されたインタビューカットが大きな割合を占めたことで、どこかよそゆきに整えたような見た目になっていた。AKB48が普段提供しているコンテンツの数々がきわめてドキュメンタリー的にアイドルのパーソナリティに迫るものであるぶん、この「ドキュメンタリー映画」の方がむしろ、普段のコンテンツに比べて“ドキュメンタリー”性が薄いという倒錯した趣きさえあった。


 そして、7月10日に公開された乃木坂46初のドキュメンタリー映画『悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46』(監督:丸山健志、以下『悲しみの忘れ方』と略記)のつくりからまず想起したのは、その寒竹ゆり監督版AKB48ドキュメンタリーのことだった。


 実際、今作『悲しみの忘れ方』は、具体的な要素において寒竹版AKB48ドキュメンタリーとの共通点が多い。選抜メンバーのうちから限られた人数を特にフィーチャーして映画用にインタビューを行ない、そのカットに大きな比重を置くバランス、メンバーの“プライベート”の象徴としてのショッピングシーン、あるいはメンバーの地元を歩き親族や友人との交わりから“素”を引き出そうとする手法などは、寒竹版の特徴とも通じている。これら、ドキュメンタリー映画用にあえてセッティングされた取材内容は、作品全体を落ち着いたトーンのものにする。起こった出来事をそのまま追いかけ、シリアスな映像素材をある意味で剥き出しのまま見せるような高橋栄樹の作品群とは対照的ともいえるだろう。AKB48にとって初めてのドキュメンタリー映画だった寒竹監督版の第1作と、同じく乃木坂46にとって初めてのドキュメンタリー映画である『悲しみの忘れ方』とは、しつらえられた場でメンバーたちの姿を捉えるシーンが映画の進行を先導する点で、外面的には相似性をもっている。


 しかしまた、両者にはやはり決定的な相違も生じている。


 『悲しみの忘れ方』は全体を静的なトーンでまとめながらも、寒竹版に比べて、メンバーが不条理な負荷によってあからさまに疲弊し、心身の限界を露呈するカットをはっきり見せている。この点が一つ目の相違点だ。これはおそらく、作り手ごとの作風のみならず、ここ四年間ほどのあいだに、「アイドルのドキュメンタリー」とは何を見せるものなのか、どこまで踏み込むものなのかについての基準が自然に確立されたことも影響しているように思う。本作は、わかりやすくショッキングな映像を突きつけることに重点を置いてはいない。しかしそれでも、寒竹版公開当時の2011年初頭にこの作品が公開されていたならば、中盤のあるシーンは今よりずっとセンセーショナルな映像として受け止められただろう。我々受け手はこの幾年かで、「アイドルの疲弊」が映し出されることに慣れすぎている。この作品全体が抑制をきかせ寒竹版との相似を感じさせるだけに、寒竹版以後の数年間で「アイドルのドキュメンタリー」が、どれほど「剥き出し」であることを当たり前にしてきたかを思い知らされる。


 しかし、何より『悲しみの忘れ方』が寒竹版を含めたこれまでの48グループの作品群と異なる興味深い点は、メンバーたちの「乃木坂46以前」の視点に、その足場を見出していることである。『悲しみの忘れ方』冒頭の30分ほどでメンバーたちによって語られるのは、彼女たちが「一般人」だった頃の、どちらかといえば屈折を抱えた日々の記憶だ。そして、乃木坂46メンバーとして一見メジャーな舞台で歳月を経ていく中でも、このドキュメンタリーの足場はたびたび、「一般人」の目線へと引き戻される。それを担うのが、ある特徴的な視点によって終始語られるナレーションである。その「ある視点」が常に寄り添っているからこそ、そもそも「一般人」だったはずの彼女たちがなぜこのようなかたちで他者と比べられなければならないのか、なぜ見知らぬ人々に叩かれねばならないのか、という問いも素朴かつ切実なものとして投げかけられる。それは、「アイドルの疲弊」に慣れすぎた受け手に、自分が楽しんでいるこのジャンルの一側面を静かに省みさせるものでもある。


 もちろん、現象だけみれば彼女たちはAKB48の「公式ライバル」として多くの人の前に立ち続け、アイドルというジャンルが抱え込む慣習に飲み込まれながら、プロとしての日々を送っている。けれども、「ある視点」が繰り返し顔を出すことで、ここで観察されているのはまだ「一般人」としての側面を残す人々の、アイドル「体験」期間でもあるようにも見えてくる。「一般人」である語り手と、アイドルシーンとの間にある距離感、それがこの作品特有の手触りを生んでいる。


 こうした筆致で描かれることも手伝って、グループの活動の中で足場を固めていく彼女たちの言動は、アイドルグループに順応していくというより、たまたま与えられたアイドルという機会をその後の人生にどう反映させていくのかの模索という感が強い。もっとも、その模索はきわめて健全だし自然なことだ。それは48グループの他のアイドルたちも同様に抱えるテーマであるし、またもちろん、先を見据えることと、いま現在のアイドルとしての活動をまっとうすることとは相容れないものではない。ただ、「一般人」視線をあくまで保ち、本来の彼女たちにとっては異界であったかもしれないものとして現在を捉えることで、アイドルシーンとはまた別次元の、人生の模索という側面がより強くあらわれる。そしてまたこの筆致は、48グループに伴って歩みながらも常に一定の距離を保とうとする、乃木坂46というグループの気風から、自然に導き出されたもののようにも感じられた。


 この作品の主人公たちが「一般人」から飛び立つのは、同伴者であり先輩でもありうる唯一の存在、松井玲奈の言葉を挟んで、2015年の活動にクローズアップしてからのことだ。メンバーたちがそれぞれに活路を見出すことで、プロとしての輪郭をはっきりさせてくる展開は、戸惑いがちな様子に見えていた彼女たちの明らかな成長を謳うものだし、グループ全体の飛躍も感じさせる。ただし最終盤、フィーチャーする対象を、さらに最近まで「一般人」だった人物に移すことで、「ある視点」は再び戻ってくる。つまりこの映画は、グループ内の世代の移り変わりを、プロからプロへの継承ではなく、各世代のビギナー期を映し出すことで表現している。この映画の主人公たちにとって、アイドルシーンは常に、ある意味で異界だ。だからこそ、「アイドルであること」とは何なのか、独特の形で浮かび上がらせるものになっている。(香月孝史)