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感傷ベクトルが予感させる、「音楽と物語の融合」の新たなフェーズ  さやわかが2枚組ベストを読み解く

2015年07月10日 20:30  リアルサウンド

リアルサウンド

感傷ベクトル

 感傷ベクトルが、7月1日に同人&ワークベストアルバム『one+works』をリリースした。感傷ベクトルは、別冊少年マガジンで連載中の漫画『フジキュー!!! ~Fuji Cue’s Music』を連載するなどプロの漫画家でもある田口囁一と小説家・春川三咲を中心としたロックバンド。同作は、田口囁一が立ち上げた同人サークルで発表した作品のベストアルバムと、提供楽曲・歌唱参加楽曲を収めた作品である。ロックバンドであり、漫画家・小説家である彼らの作品は「物語と音楽の融合」とも評されるが、評論家のさやわか氏は、感傷ベクトルがそうした方法論をさらに先に進めていると分析する。(編集部)


 感傷ベクトルは、田口囁一と春川三咲から成る2人組のユニット。バンドとしては、田口がボーカル、ギターその他の楽器そして作詞を担当しており、春川はベースということになる。しかし彼らはもともと同人誌でバンド漫画を描き、その作中に登場する音楽を音源化するような活動をしていた。また近年にも、やはりバンドをテーマにした漫画作品「シアロア」をウェブ連載し、更新のたびに1曲ずつ同作と連動した楽曲を公開していた。この漫画連載は後に単行本としてまとめられたし、楽曲もCDアルバム化されている。そしてそもそも田口は感傷ベクトルの活動とは切り離された場所においてすら漫画家として作品を送り出し続けており、また春川もしばしば脚本家としてクレジットされている。


 こうした活動はたとえばメディアミックス的だと言われたり、あるいはニコニコ動画やボーカロイドなどを楽しむ若手に見られがちな「物語と音楽の融合」の一種であると言われたりもする。それは間違いではないだろう。しかし、そういうキーワードだけでまとめてしまうと、そもそも彼らがなぜこんなことをやっているかということは見過ごされがちになる。どうかすると、要するにこうした作品を作る者たちはメディアをまたがって商売の幅を広げたいのだと揶揄するように語られたりもする。


 彼らがやっていることを、メディア同士の分断された姿でしか把握できなければ、結局そうした言葉が出てきてしまう。しかし、もちろんそうではない。考え方を変えるべきだろう。彼らがやっていることとは、むしろ単に物語そのものなのではないか。90年代に多くのバンドが求められてきたのは、アーティストの内面を描くことだった。それはそれである物語の型に沿ったものではあったが、2000年以降になってBUMP OF CHICKENなどが台頭して、いま彼らがやったこととして振り返ることができるのは、アーティスト自身の考えが投影されているとしても、それとは別個の世界観や登場人物から成る物語に基づく歌だった。2000年代後半に登場した「物語と音楽の融合」あるいはメディア越境的に振る舞うミュージシャンたちは、この路線をさらに深めた者たちなのだろう。


 だから感傷ベクトルにとって、音楽を作ることと漫画を描くこと、あるいは物語を書くこととは、彼らが描きたい感情や思想がまず情景として表れるもので、さらに言えばそれは映像的にイメージできるようなシーンや台詞から成り立っている。それがアウトプットされる先がどのメディアになるかという違いはあれど、彼らの表現がまずは物語そのものなのだというのはそういう意味だ。


 しかし感傷ベクトルは製作ユニットというだけでなく、あくまでもバンドとして、場合によってはライブを行うことも考慮に入れたグループとして存在している。これも若手のクリエイターにとってはどちらかといえば自然なことで、彼らは物語として作られたものを積極的に身体を通して演じようとする。彼らの少し前の世代なら、物語性を重視する音楽ユニットはパッケージとして、あるいはプッシュ型のメディアに乗せて作品を送り出すことにこだわり、作り手の身体を現さないことも多かったのだが、いまその垣根は次第に破られつつある。それはルーズな出来事ではなく、物語を中心としてメディアが横断されていった結果、ついには身体を使った表現もそのバリエーションに加えられていくということなのではないかと僕は思う。


 感傷ベクトルは7月1日に同人時代のトラックとコラボ楽曲を集めた2枚組のアルバム『one+works』をリリースしたが、まあこれは実質的にベスト盤的なものだと言っていいだろう。これはつまりそれぞれの楽曲が本来なら持たされていた物語から引き離されて、ひとまとめにされたということになる。そういうやり方もまた、物語を頑なにひとつのスタイルで送り出すことからの解放のように思える。つまり「物語と音楽の融合」は、単純にメディアミックスという言葉で片付けられるような段階を終え、新たなフェーズに入っている。それは音楽というものの、あるいは物語というものの位置づけの時代的な変化を感じさせるもので、感傷ベクトルの活動には端的にそれが顕れている。
(文=さやわか)