トップへ

フェスシーンと一線を画すLAMP IN TERRENの存在感 バンドが放つ歌の世界を分析

2015年07月03日 17:40  リアルサウンド

リアルサウンド

LAMP IN TERREN

 LAMP IN TERRENは、現在の音楽シーンで、やや異質の存在感をまとっている。


(関連:ロックバンドにおける歌の復権へ 徹底的に歌詞にこだわるLAMP IN TERRENとは
 
 僕はこの6月30日にも体感したばかりなのだが、彼らのライブは本当に熱く感動するものであるが、決して大盛り上がりするわけではない。トリオというロック的な編成ではあるものの、基本的には歌ものバンドと言っていい。それもみんなで踊ったり合唱するのでなく、ひとつひとつの音や言葉が、聴き手ひとりひとりの「個」に向かって静かに、しかし深く刺さる場面が続いていくような感覚なのだ。オーディエンスとの一体感で乗せていこうとするフェス隆盛の現況とは、一線を画している。


 そして、その歌の世界も独特である。まずはひとつ目。このバンドの歌にはラブソングが極端に少ないのだ。


 歌を中心にしたバンドには、優れたラブソングを作り、それを唄うことで、自分たちの表現をモノにしてきた先達が多い。たとえば初期のMr.Childrenは一対一のラブソングを一級のポップ・ソングにしたし、現在はback numberがそうした存在であると言えるだろう。恋や愛について唄いながら、そこで希望をつかんで生きていこうとする思いを描いている点では、LOST IN TIMEやSyrup 16g、flumpool、あるいはBUMP OF CHICKENといった存在も挙げられるだろう。そしてLAMP IN TERRENの音楽には、これらのバンドたちに一脈通じるところもある。


 ただ、インディーでミニアルバム1枚、メジャーでは今回の『LIFE PROBE』で2枚目と、現時点で3枚のアルバムまでで松本 大が書いてきた楽曲は、恋愛というモチーフに身を預けていない。彼の歌は主に「僕」と「君」、もしくは「あなた」という登場人物で描写されているのだが、ほとんどの場合、それがラブソングだと感じられないのだ。「君」が間違いなくかけがえのない間柄として唄っているにも関わらず、恋愛的な、ロマンチックな要素が少ない。その理由はわからないし、確固としたことは断言できないが……これには先日アップされたインタビューで触れた、彼が他人に求めるものが大きいという事実がどこかで関係している気がする。(参考:「LAMP IN TERRENが見出した、曲を作って唄う意味 『聴いてくれる人たちに未来を照らすような作用を与えたい』」)


 たとえば『LIFE PROBE』収録の「ボイド」はラブソングとのことなのだが、それでもやはり恋愛感情を綴ったような甘さがない。むしろ際立つのは<空の向こうには 何が広がって/どんな風に僕らが 見えているんだろう>という唄い出しに表れているように、過去から未来までを通した時間軸での自分たちのあり方――いかに生きるか、どんな思いを持って前に進んでいくか、という意識だったりする。


 そう。いかにして生きていくのか。自分はどうやって前を向いていくべきなのか。松本 大の言葉には、そうしたテーマが内在している。このバンドの作品に感じるふたつ目の傾向は、これ。LAMP IN TERRENは歌の中で、つねに自分の内面への問いかけを行っていることだ。


 松本の歌の主人公たちは、精神的にもがいている印象を受ける。<生きる意味>を求め、<僕を探す旅>をしている「portrait」(『PORTAL HEART』収録)。<ここに居る意味>を仲間と模索しようとする「緑閃光」(『silver lining』収録)。自分の居場所や心の行き先を求めながら、その過程で迷いや悩みに直面し、葛藤にさいなまれる。内省的であり、文学的ですらある世界だ。昔話のような体裁をとっている「王様のひとり芝居」(『LIFE PROBE』収録)にしても、こうしたテーマ性と地続きである。


 LAMP IN TERRENのそんな表現に浸り、僕は先ほど挙げたのとはまた毛色の違うバンドたちのことを思い浮かべた。まずはエレファントカシマシ。それからイースタンユース、ブラッドサースティ・ブッチャーズ。自分でも意外だった。どれもエモいバンドだし、何しろ武骨だし、イースタンやブッチャーズに至ってはルーツがハードコア・パンクである。それに当たり前だが、世代的にはLAMP IN TERRENよりずいぶん上だ。


 しかし、こと歌詞の世界においてはどうか。先ほどのバンドたちが唄ってきたのも、それこそ自分はいかにあるべきか、どう生きるべきかという、際限のない自己探求なのだ。くだらない、どうしようもない日常の虚無に襲われながらも、「ファイティングマン」「珍奇男」といった人格を作り出してまで現状突破を試みるエレカシの宮本浩次。現実の自分のありように深く絶望し、時に嗚咽し、血を吐きながらも、ギリギリの場所から生を叫ぶイースタンの吉野寿。残念ながらすでに故人だが、ブッチャーズの吉村秀樹は、それこそ自身の葛藤や苦悩を咆哮と爆音ギターに託した男だった。


 付け加えれば、この先輩たちはいずれも昭和的な男性観を強く植え付けられた世代で、だから歌の根っこには「男としてどうするのか」という使命感や切実さがある。音楽もさることながら、そうした点も平成生まれのLAMP IN TERRENとは大きく違う。しかし自身の内側への激しい問いかけが歌の底にあるという点では、決して遠くないはずだと僕は感じるのだ。


 かけがえのない他者との関係性。激しい内省。これらからは、松本 大という人間の像までが浮かび上がってくる。そこについては、これも先日のインタビューをぜひとも読んでいただきたい。そしてこうした歌のせいなのか、LAMP IN TERRENの音楽には、どこかゴリッとした、それこそ武骨で、硬派とでも言いたくなるほどの強い歯ごたえがあるのだ。3人のルックスや雰囲気はどちらかというとスウィートなのに、である。


 ただ、この傾向も今後は変わっていくのではないかと思う。松本自身が今度のアルバムについて「自分の歌の先にちゃんと自分以外の誰かがいる」と語っていたように、その視線はもっと先のほうに、たくさんの人に向けて広がっていく予感がするのだ。そのことは、より開けた歌や、万人の心に届くようなラブソングをいつか書いてくれるのではないか……という期待を持たせてくれる。


 最後に。LAMP IN TERRENの音楽の大きな魅力は、松本のボーカルだ。その響きに宿る青さは希望を感じさせてくれるし、クライマックスではエモーショナルな熱さを爆発させる瞬間はこちらの心に大きな波動をもたらしてくれる。これは天性のものとしか言いようがない。そして忘れてはならないのは、リズム隊との一体感である。メロコアなどのパンク系のバンドを経てきた川口大喜の強烈なドラミング、歌心に寄り添う中原健仁のベースラインは、もちろんテクニック的にはまだまだ向上を目指してほしい段階だが、気持ちをいつも松本の歌とひとつにしようとしている姿勢がうかがえる。いい仲間たちだと思う。


 LAMP IN TERRENは、果たして松本 大は、これからどんな歌を唄っていってくれるだろう。そして、われわれにどんな感動を与えてくれるだろう。生きること、前に向かっていくことをここまでまっすぐ歌にしてくれるバンドが、いつか数多くの人々の心を救う日が来ることを、僕は待ち望んでいる。(青木優)