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乃木坂46が舞台公演『じょしらく』で見せた、“アイドル演劇”の可能性とは?

2015年06月30日 18:21  リアルサウンド

リアルサウンド

『じょしらく』公式HP

 先週末に全日程を終えた乃木坂46の舞台公演『じょしらく』(6月18~28日、渋谷・AiiA 2.5 Theater Tokyo)は、乃木坂46が自ら手がけるものとしては、初めての“素直な”演劇公演だった。


(参考:乃木坂46とHKT48が舞台公演に力を入れる理由とは? それぞれの演目が持つ意味を分析


 時折語られることだが、乃木坂46は「芝居ができるアイドルを確立する」という目標を掲げている。シングルCDリリースの際に収録される個人PVなども、そうした経験値を積む一環になっているが、演技という観点で見る時、特にこのグループが意識的に取り組もうとしているのは舞台演劇である。デビューの2012年から毎年の恒例イベントとなっている舞台公演『16人のプリンシパル』はその基盤になるものだ。たとえば『16人のプリンシパル』で安定的な演技力を見せてきた若月佑美は、昨年から今年にかけて前田司郎の代表作『生きてるものはいないのか』のキャストや、2.5次元舞台『ヴァンパイア騎士』の主演に抜擢され、グループに在籍しながら広い振り幅の外部舞台経験を積んでいる。


 ただし、この乃木坂46の看板イベントである『16人のプリンシパル』は、舞台演劇を志すことだけを考えるならば必ずしも最適な企画ではない。『16人のプリンシパル』では、あらかじめ配役が決まっていないままメンバーはすべての登場人物の台詞と段取りを覚え、その日の公演ごとにオーディションを行なって観客投票で各公演のキャストを決め、演劇を上演するというスタイルをとっている。このシステムは、AKB48的な“民意”を介したエンターテインメント性と、乃木坂46自身の演劇への志向を融合させたものである。その構造特有の面白さが呼び物ではあるものの、一つの役に専心できないまま稽古期間、公演期間が過ぎてしまうため、まだ俳優としてビギナーの位置にいるメンバーたちが基礎を覚えるための場として考えるのは難しい。48的なエンターテインメント構造か、演劇志向か。過去三回の公演を通して、乃木坂46はその両者の間で揺れてきた。それとは対照的に、今回上演された『じょしらく』は、乃木坂46がごく自然に演技のキャリアを積むための企画として、『16人のプリンシパル』の構造では実現できない機能を果たすものになった。一人のメンバーが一つのキャストに専念して役を掘り下げることができ、固定した座組で公演を行なう演劇は、乃木坂46が手がけるものとしては初めてのことになる。冒頭で、初めての“素直な”演劇公演と書いたのはそのためだ。


 もっとも、この『じょしらく』という題材そのものは、オーソドックスな進行の戯曲にはなりにくい。原作の漫画作品自体が、明確な一本道のストーリーを持つものではなく、女性落語家たちの楽屋での「差し障りのない」会話で構成される。今回の乃木坂46版舞台も、比較的原作を忠実に参照したパートは多く、日常をつづるようなシーンの連続で進行する。その意味では、この舞台作品もまた一風変わった独特のテイストを持つものではある。ただし、各メンバーがそれぞれ一つの役のみに専念できること自体の効果は、やはり大きかった。今回の舞台化では、事前オーディションで選抜された15名のキャストを3チームに分けたトリプルキャストの方式をとったため、一人一人が出演できる回数は、全15公演のうち3分の1ずつに限られる。『16人のプリンシパル』に比べれば、公演期間中に舞台に立つ回数そのものはずっと少ない。それでも、役者としての安定感は『じょしらく』の方が数段上だったといっていい。上述したように『じょしらく』は強いストーリーで推進できるタイプの作品ではないだけに、出演メンバー同士で間やテンポを密に合わせた芝居をしなければ、途端に間延びしてしまいかねない。過去の『16人のプリンシパル』や『じょしらく』公開オーディション時から目を引く演技を見せていた伊藤万理華や衛藤美彩、井上小百合といった個人のレベルではなく、チームとしてその点をクリアできていたのは『じょしらく』の大きな収穫だったはずだ。それは脚本・演出を務めた川尻恵太との稽古期間に、充実した蓄積があったことをうかがわせるものだった。


 さて、日常の一コマをつづるようなシーンを積み重ねて進む舞台版『じょしらく』だが、この芝居は上演時間が進行するにつれて、落語家としての彼女たちの日常の裏に、彼女たちが「アイドル」として日常を過ごすパラレルワールドが潜んでいるような、二つの側面がないまぜになった構造をみせていく。落語家の日常とパラレルに、この世界に存在するアイドルの日常、ある時その二つが接点を持ち、そこからこの舞台は一気に加速していく。


 もっとも、ここで描かれる「落語家の日常」も「アイドルの日常」も、そもそも乃木坂46という「アイドル」によって「演じ」られている。そのことによって、「演じる」という言葉の意味は、現実世界に跳ね返ってくるような広がりをもつことになる。作品最終盤で投げかけられる「みんなは演じていないのか?」というシリアスな問いは、そのまま現実世界でアイドルという職能を背負っている乃木坂46メンバーたち自身が、アイドルとしての日常を「演じ」ながら過ごしているのではないのかという問いに重ね合わされるのだ。


 しかし、この問いを「嘘の姿/真実の姿」といった、単純なネガティブ/ポジティブの対比でとらえるべきではない。この作品で示唆される「演じる」こととは、欺瞞であるよりも、ある世界を「上演」することの誇りのようなものだ。今日のアイドルは周到に編集されたメディア上で完結するものではなく、現場にせよSNSにせよ、便宜上の「舞台」を降りた「日常」までもが「上演」の場にならざるをえない。日常と舞台上とが互いに浸透しあうような環境のなかでは、演じる/演じないを場によって区別することはますます難しくなっているはずだ。舞台版『じょしらく』はアイドルをとりまくそんな状況の苛酷さ理不尽さに水面下で目を配りつつも、アイドルが「上演」されること、アイドルという職能を通じて「上演」できる世界を肯定し、前向きな意義を主張しているようにみえた。


 アイドル演劇というジャンル自体、アイドルである演者の人格と、そのアイドルが演じる物語上の登場人物の人格とが重ね合わされて受容されることで成立するジャンルである。より一般的にいえばそれは「スターシステム」ということにもなるが、ことアイドル演劇の場合、特に演者のパーソナリティに強く視線が注がれる。その性質を綺麗に織り込みつつ、彼女たちが舞台経験を正当に積む場としても成立したのが、今回の乃木坂46版『じょしらく』だった。『16人のプリンシパル』とは違った演劇企画を持つことで、「演劇の乃木坂46」としての武器は確実に増えた。『16人のプリンシパル』と今回の『じょしらく』とは、互いに性格の異なるエンターテインメント性を宿している。この公演のフィードバックを受けて今年以降の『16人のプリンシパル』はどのように舵を取るのか、また次なる演劇企画はどう設定されるのか。『じょしらく』は今年下半期、そして来年以降の乃木坂46の可能性に幅を持たせる歩みだった。(香月孝史)