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リズムという概念のない男ーー『やついフェス』の蛭子能収に衝撃を受けた

2015年06月27日 22:41  リアルサウンド

リアルサウンド

蛭子能収『蛭子能収のゆるゆる人生相談』(光文社)

 もっとも大きな会場であるTSUTAYA O-EASTで、タイムテーブル上では18:30から(実際は30分押していたので19:00から)『エレキシヶ原の歌合戦』という催しが行われた。これは、やついいちろうチームとレキシ(池田貴史)チームに分かれ、『紅白歌合戦』ばりに1曲ずつ歌って勝負する、という、フェスの彩りとしてバラエティ番組的こともやりましょうみたいな企画。


 バックバンドを務めるのはこの日CLUB ASIAのトップに出演したカルメラ。いつものようにグダグダと脱線して進行を妨げるレキシ池ちゃんにやついくんがつっこんだりしつつ、1曲目はレキシチーム=レキシ&いとうせいこう&MCいつか(Charsima.com)の3人で、“今夜はブギー・バック”。途中で曲がレキシの“狩りから稲作へ”に変わったりして、大いに盛り上がる。続いてはやついチーム=やつい、コムアイ(水曜日のカンパネラ)、GONCHI(Charsima.com)の3人で“DA・YO・NE”を披露、途中で水曜のカンパネラの曲になったりしてさらに盛り上がる。


 そして、やついチームの二番手として、ヘアスタイルからメイクから衣装まで全身TOSHIのコスプレ姿の片桐仁が登場。 “紅”を歌うも、キーが苦しいようでサビは客にマイクを預けっぱなし、それをやついくんにつっこまれたりしてフロアは大笑い。


 ここまではよかった。異変が起きたのは、そのあとだ。


 やついチーム、片桐仁のTOSHIに対抗するアクトとして登場したのは、蛭子能収。今このステージにいる人のうち、おそらくいとうせいこうしか知らないであろう蛭子さん、そのいとうせいこうに「俺は昔から蛭子さんのことを野良犬と呼んでいる。おい野良犬!」といじられたり、逆に池ちゃんに「具志堅さんですか?」とたずねて笑いをとったりしたのちに、「何を歌ってくれるんですか?」「美輪明宏さんの“ヨイトマケの唄”を」というわけで、拍手を浴びて歌い始めた。
その歌いっぷりに、我々オーディエンスは度肝を抜かれることになる。


 蛭子さんの歌、リズムという概念がないのだ。リズム音痴とかリズムがずれるとかではなく、リズムという概念そのものを持っていないのである。だから、演奏に合わせて歌おうという意志がゼロ。歌には演奏がある、という前提を無視していると言ってもいい。


 冒頭の「♪とうちゃんのためならエンヤーコーラー」のアカペラ部分が終わって、まず演奏と共に歌が始まるはずが、自分のタイミングで適当に歌い始める。1番が終わって2番に入る時も、バックの演奏が2番の頭にさしかかるのを待たずに歌に入る。だからコードが合わないのは当然、リズムも頭と裏がコロコロ入れ替わる。


 驚愕しつつ手拍子を放棄する超満員のオーディエンス。「そうか、この人、そうなんだ」とうことを悟り、歌がずれるとそれに合わせて瞬時にリズムとコードを変えるカルメラ一同(すごいアドリブ力でした。心底感心しました)、でもまたすぐずれる蛭子さん、それに合わせてまた変えるカルメラ……と、歌と演奏の追いかけっこと化すステージ。そんなことには一切かまわず……というか「かまう」「かまわない」という意識すらなく、片手に歌詞カードをがっちり持ってそれを顔を近づけ、読み上げるように歌い続ける蛭子さん。両ソデで這いつくばって笑っているやついくん、レキシ池ちゃん、いとうせいこうなどの共演者一同。


 しかも。音程も外れまくっているならまだわかるが、そうではないのだ。音程はちゃんと合っているし、声は美声とすら言ってもいいくらい。ちゃんと歌えている。なのに、リズムだけが合っていない。くり返すが、ずれているのではなく、ずれるとか合わせるとかいう意識そのものがない。


 たとえばラップと日常会話の違いは色々あるが、もっとも異なるのは、ラップがリズムに乗って発されるが会話はそうではない、ということだ。あたりまえだ。今こいつがしゃべってるテンポ95BPMぐらいで、しゃべり終わりが2拍目だったから4拍目のとこで半拍食って(シンコペーションして)「でもさあ」って言おう、とかいうふうにはしゃべらないでしょ? 日常会話で。自分のペースで、自分の速さでしゃべるでしょ? どうやらそれと同じらしいのだ、蛭子さんにとっての歌というものは。


 歌が終わり、蛭子さん、ひとしきりみんなにつっこまれまくったあと、次は「歌で戦うなんてやめろ!」と仲裁に入るという体で、忌野清志郎完全コスプレのワタナベイビー(ホフディラン)が登場、“雨あがりの夜空に”を歌う、という展開になったのだが、ここでまた彼の特異性が露わになる。


 蛭子さん、ステージ後方で、他の出演者に合わせて手拍子をしたりサビで腕を左右に振ったりしているのだが、その手拍子の打ち方も、腕の左右の振り方も、本当に「なんとなく」やっているのだ。何にも合わせていない。何の規則性もない。まるでかゆいところをかく時のように、頭に手をやる癖のある人のように、手拍子を打ったり腕を左右に振ったりしているのである。


 たとえばスピッツの草野マサムネは、ステージでギターを弾きながら歌う時に腰を左右に揺らすくせがあるが、その揺れ、いつも曲のテンポとは違う。違うが、一定の規則性を持って左右に揺れていることが見てとれるので、きっと本人の中に何かあるんだろうな、と観る側は納得できる。しかし、蛭子さんは、それですらないのである。


 彼が歌い始めてからステージから去るまでの間、共演者たちも超満員のオーディエンスも終始爆笑していたが(中にはコムアイのように「感動しちゃいました」と泣いていた人もいたが。蛭子さんが女性誌で連載している人生相談の愛読者だったりして元々ファンだったから、みたいなことをおっしゃっていました)、僕はただただ心底驚いていた。


 蛭子能収モンスター説というのは、古くは浅草キッドが著書などで、最近では伊集院光がTBSラジオ『深夜の馬鹿力』などでネタにしてきたことなので、サブカル系オヤジ&青年&少年の間で広く知られた事実だ。僕にしても、80年代にガロや宝島で蛭子さんの漫画を読んでいた頃はそんなこと知るよしもなかったが、ここ数年、キッド&伊集院の薫陶を受けてきたおかげで(伊集院からはいまだに受けている。6月22日の『深夜の馬鹿力』でも、その2日前に放送された蛭子さん出演の『路線バスの旅』の話をしていたし)、そのモンスターっぷりは把握しているつもりだった。昨年8月に角川の新書から出た蛭子さんの著書『ひとりぼっちを笑うな』も、すぐ買って読んだし。


 しかし。歌までモンスターだとは知らなかった。しかもこんな、我々の常識や既成概念を根本から覆すレベルの。


 僕は10歳で初めて自分の意志でレコードを買って、13歳から洋楽を聴くようになって、15歳からアマチュアバンドを始めて、22歳で株式会社ロッキング・オンに入って、音楽雑誌を作って売ることが仕事になって……つまり、それなりに音楽に密接な人生を送ってきたつもりだった。しかし。リズムという概念を持たない人がすることは知らなかった。自分の人生、何か、根本的な大きな見落としをしたままで、ここまできてしまったのではないか。という衝撃に、今、新たに打ち震えています。


 ただ、一晩寝て起きて、ひとつ思い出した。


 どの作品だったか忘れてしまったが、西原理恵子の漫画を読んでいたら「自分のお祖母さんは音楽というものがあること自体を知らなかった」と書かれていて、びっくりしたことがある。が、もしかしたら昔の日本って、けっこうそういうものだったのかもしれない。


 まあそれは極端な例としても、ラジオが普及する前、庶民が日常的に音楽に接するのって、それこそお祭りや盆踊りの時ぐらいだっただろうし。それらの歌に「リズムの裏表」とか「リズムキープ」という西洋音楽的な概念があったとは思えないし。たとえば盆踊りも、リズムに乗って身体を動かしていくというよりも、「同じ動きを順番にやる」に近い気もするし。


 僕が知らなかっただけで、蛭子さんのようなリズムという概念のない人たちは、一定以上の年齢層で、日常的に音楽に接さずに生きてきた人の中には多いのかもしれない。


 そういえば、僕の父親は現在78歳、母親は72歳なのだが、歌を歌っているのを聴いたことも、音楽に合わせて手拍子をしているのを見たことも、一度もない。もしかしたら……。(兵庫慎司)