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浅野忠信はなぜバンド活動を続けるのか? 「音楽を通じて自分の気持ちを変えたい」

2015年06月24日 14:31  リアルサウンド

リアルサウンド

浅野忠信

 浅野忠信が率いるバンド・SODA!が6月24日に2ndアルバム『SKYBLUES!』をリリースした。2014年にリリースされた18曲入りの1stアルバム『抱きしめたい!』に続く本作は、CD収録の14曲に加え、8曲のダウンロード音源が特典として付属するボリューミーな1枚で、ファンクを軸としたダンサブルでポジティブなナンバーがぎっしりと詰まっている。俳優として第一線で活躍しながらも、古くからハードコアパンクシーンと深い繋がりを持ち、これまで数々のバンドで音楽活動を継続してきた浅野忠信にとって、SODA!としてリリースした同アルバムはどのような作品なのか。バンド結成のいきさつから表現へのこだわり、さらには10代の頃から抱き続けている音楽愛や、俳優業と音楽活動を両立する意義まで、じっくりと語ってもらった。聞き手は、古くから交流があるハードコアバンド・FORWARDのISHIYA氏。(編集部)


■「ファンクとパンクに同じ力を感じていた」


ーー浅野君はSODA!以外にも、PEACE PILLとSAFARIとRと、4つのバンドをやっているよね。


浅野:PEACE PILLは高校生のころからやっていて、その後にSAFARIを始めたのですが、SAFARIのベーシストが実はSODA!のギタリストなんです。そいつと僕は昔からずっとファンクが好きだったんですよ。僕は小さい頃から母親にジェームス・ブラウンなどをずっと聞かされていて、ファンクとパンクに同じ力を感じていたんです。SAFARIはパンクロックが好きで始めたバンドだったんですけど、ファンクにもポジティブなエネルギーを感じていて、是非やりたいねってことになって組んだのがSODA!で、実はだいぶ前からあったんです。SAFARIは1999年くらいからやっていて、それから5~6年くらいは経って組んだ感じですね。当時はまだ曲もなかったので、スタジオに入ってセッションをして探っていく感じでした。ちなみにベースは、SAFARIのドラマーが弾いていて、ドラムは、SAFARIとよく一緒にツアーをまわっていたCOKEHEAD HIPSTERSというバンドのドラムですね。


ーー 4分の3がSAFARIのメンバーなんだね。SODA!っていうバンド名の由来は?


浅野:SAFARIのメンバーと3人くらいで集まったときに「簡単にわかりやすく弾けた何かが欲しい」というところで、SODA!っていう名前はとてもポップで弾けた感じでいいんじゃないかな、と思って名付けました。


ーーSODA!のサウンドはどんなことを意識して作っているのかな。


浅野:最初はファンク・ダンスミュージック的なところで考えていたんですけど、SAFARIを続けながらRを始めて、その間にも個人的にテクノ方面で曲を作ってライブもしていたんです。全部の音楽活動を続けながら、その間に映画の撮影であっちこっち行くんですけど、そのときに空き時間も結構あるので曲作りに専念できるんですよ。そうやってテクノ、PEACE PILL、SAFARI、Rとやって行く中で、自分のスタイルが見えてきたときがあったんです。「自分は音楽のどういうところに魅力を感じてるんだろう?」と考えたときに、映画の撮影でアメリカのニューオーリンズに行ったんですが、そのときに街中でリアルライフで音楽をやってる人達で溢れていて「音楽って自分の中で必要とする日常なんだな」っていうのをすごく感じました。そこで「ループする曲が自分の中でしっくりくる」ってことに気付いたんです。そこに行き着いてからは、これはすべてに取り入れるしかないと思って、そこから曲作りがガラッと変わってフレーズの繰り返しになっていきました。スタジオでみんなで作っている曲もあるんですけど、基本的なフレーズはほぼ僕が作って、歌詞も書いています。


ーー今回の作品の中でいちばん思い入れがあるのはどの曲?


浅野:もちろん全曲にそれぞれ思いが込もっていて、1曲1曲をひも解いていったらキリがないんですけど、最後の「ポケット!」っていう曲は、1番最後に持ってきただけあって特に気に入っています。シンプルでなんでもない曲なんですけど、歌詞を読んでもらえれば、ヒントとなるものが詰まっているかなと思っているんです。ポケットの中に夢を詰め込んでーーといった歌詞はよくありますが、そういう言葉は今でも僕の中で引っかかるんですね。小さい頃にはポケットの中に小銭もミニカーも含め、すべてを詰め込んでいて、あれが毎日を支えていたわけで。「うう、ヤバい。カツアゲされる」っていうときも、小銭は出してもミニカーは出さないみたいな。そういう思いが詰まっていて、自分を支えてくれていた大切な存在がポケットだったというところで、この曲が好きですね。


ーー「俺はブルースなんか!」という曲では、「悲しい気分なんか打ち明けたくない」って歌っているよね。


浅野:1stアルバムの『抱きしめたい!』を作ったときに、どうしても自分の不満を歌っているところがあったり、聞きようによってはネガティブに聞こえてしまうときがあったんですよ。でも、それはやっぱり違うんじゃないかと。本当に何かを変えたいときに憎しみからは何も生まれないと感じていたので、SODA!の中ではできる限りネガティブな発言は排除したいんですね。SODA!では、歌って踊ってお祭り的に楽しい時間を提供したくて、歌詞でもそういう表現をしています。


■「先輩に『お前は俳優だけど、パンクだよな』といわれて嬉しかった」


ーー浅野君はもちろん俳優業がメインだと思うんだけど、バンド活動はライフスタイルの中でどういう風に位置づけている?


浅野:僕は中学2年生の時に、金八先生と言うドラマのオーディションに受かって、あの時にちょうどバンドブームがきていて、母親がセックス・ピストルズの写真集を自分の机の上に置いていたんですね。その写真集のシド・ヴィシャスがジャンプしながらベースを弾いている写真を見て「とってもカッコイイ男がいるんだなぁ」と思って、 母親に「なんだこれは?」って聞いたんです。そしたら「お前もそろそろセックス・ピストルズだろ」って言われて(笑)。そこから「俺もバンドやりたいって」思って始めたので、スタートは俳優業と同時ですね。それで高校に入ってすぐにPEACE PILLのメンバーと出会ってバンドを始めて。ギタリストのやつが、イチローさん(PILE DRIVER)の中学校の後輩だったんです。


ーーそこからハードコアシーンの連中と仲が良くなっていったと。


浅野:はい、でもすぐに仲良くなったわけではなくて。僕はいつもギターのやつの家に溜まっていたんですが、当時の中学生や高校生は、駅に行くのにどうしても通らなければいけない道があって、そこにイチローさんやセン君(PILE DRIVER)たちが溜まり場にしてる場所があったんですよ。そこを下手にバイクなんかで通った日には赤いコーンが飛んで来たり、「お前なんだ!」って追いかけられたりするんですよ。それで「怖い!」って逃げたりしていて。


ーー知ってるよ、その溜まり場のことは(笑)。


浅野:それでギターのやつに「イチローさんたちってどんな感じだったの?」って聞いたら、「いやーすごいよ。モヒカンで生徒会長で」とか色んな話を聞いて、「すげぇな、友達になりてぇな」って毎日言ってたんです。そのときにイチローさん達がやってるOUTSIDERSってバイクのチームがあって、そこに唯一僕と同じ歳の友達がいたんです。そいつの家に行くようになったら、まぁOUTSIDERSの連中が来るわけですよ。それからバイクの後ろに乗せてもらって溜まり場とかに連れて行ってもらって「おお、少し近づいた!」みたいな。


ーーわはは、ただの不良だね。


浅野:それで僕らも行き場がないので、それから図々しくそこに通うことにしたんです。最初は結構、冷たかったんですけど、俺たちは食いついていって少しずつ認めてもらって。そしたらそのギターのヤツがOUTSIDERSの知り合いだった人にすごく気に入られて、「あいつらもOUTSIDERSに入れようぜ」って言ってくれたんですよ。そしたらイチローさんも認めてくれてOUTSIDERSのワッペンをくれたんです。「よっしゃー! これで俺たちもみんなと仲良くなれた!」って言って、イチローさんたちと遊ぶようになって、それからは本当に面白かったですね。


ーー今でもOUTOSIDERSの服を着てるもんね。今なかなか着てるヤツはいないよ(笑)。


浅野:同時進行で俳優も始めたところだったんですが、イチローさんたちは「お前は俳優だけど、パンクだよな」って認めてくれたので、それがすごく嬉しかったですね。彼らが音楽ではないところで存在を認めてくれたからこそ、俳優という仕事に本腰を入れようと思えた部分はあると思います。


ーーその頃の経験が、いまの音楽観にも繋がっていると。


浅野:そうですね。そこは大きいですね。音楽のルーツに関しては、母親と兄貴がいろんなことを教えてくれたんですが、その感覚をわかちあえる人たちがイチローさんたちだったんです。彼らのおかげでいろんな面白い人たちと出会えて「これはたしかに、母親が教えてくれたなにかと同じなんじゃないか」と感じていました。10代の頃からハードコアパンクシーンに関わったことで得たものは多かったです。皆さんが遠慮なく接してくれて、「お前にとってこれは何なんだよ?」「お前にとってこれは本当なのか?」と問いかけてくれたので、そこで僕は考える時間を持てたんですよ。


ーーなるほど。いまも音楽活動は俳優業に影響を与えている?


浅野:20~30代まで、俳優業のインタビューでもいろいろ聞かれていましたし、自分でも両者の相違点あるいは共通点はなにかをずっと考えていました。表現がどこから発信されているかというと、僕の中に小さい頃からある、このなんだかわからないエネルギーなんです。僕はとても満たされた毎日を送っていて、満たされてないから表現をしているわけではありません。ただ、なんだかわからないエネルギーだけがずっと心にあるんですね。満たされた環境があって、それでもなお湧いてくる表現欲求が僕の核にあって、そのエネルギーをみんなに頼って、さらに力強くしたいと思っているんです。それは音楽においても俳優においても一緒です。


ーー俳優としてはいろいろと葛藤があるといっていたけれど、音楽でもそれはある?


浅野:俳優としての活動は、監督の描いた筋書きに沿う作業なので、ある種ストレスの溜まる行為ではあるわけです。もちろん、そのストレスは決して悪いものではなく、そのなかで戦いながら演じることに本当の面白みがあるのですが、音楽では監督的なイニシアチブを自ら持って曲を作れますし、ライブも自分たちで組み立てたりすることができるので、ゼロから作っていける。そこは楽しいですね。音楽というのは映画と違って、目を閉じていても感じられるものじゃないですか。僕は音楽を通じて人の気持ちを変えようとは思わないんですけど、自分の気持ちを変えようとは思うんです。音楽は今すぐ口ずさむことができるし、頭の中で鳴らすこともできる。俳優業は決して自由な表現ではないからこその魅力がありますが、音楽には自由に表現する魅力を感じていますね。


■「シンプルな音楽のエネルギーをシェアしていきたい」


ーーSODA!はジャンルを問わずにいろんなバンドと共演しているけれど、対バンをして印象的だったのは?


浅野:以前、でんぱ組.incというアイドルの子たちとライブをさせていただいたんですが、こういう異ジャンルの対バンこそやらなきゃいけないと思いました。普段は聴かない音楽だったり、出会わない人たちのところに行って、自分たちがどんな状態になれるのか、その人たちのお客さんとどういったコミュニケーションをとることができるのかーーそれが1番重要なことかと思っています。彼女たちのライブはものすごく盛り上がっていたし、ファンのひとたちは僕らの演奏もすごく楽しんでくれて、とても刺激になりましたね。対バンして、お互いのコミュニケーションからなにかを受け止められれば、こんな最高なことはないと思いました。


ーーほかにいま、興味があるシーンはある?


浅野:以前、サマーソニックでアンダーワールドのライブを観たんですけど、ボーカルのカール・ハイドさんがすごくよかったですね。大人の男が汗だくで真剣になって、自分に向かって歌ってる姿を見たときに「もうこれをやられたら若者は敵わないな」と思いました。歳を重ねて自分のために音楽をやっている人、自分のためにプレイしている人とは、一緒にやってみたいなと思いましたね。それと、フェラ・クティの息子のフェミ・クティをフジロックで観たときも、やっぱり良かったですね。それもループで聴かせる音楽で、そこにやっぱり弱いんですけど(笑)。あとは海外アクトのライブを観て感じるのは、コミュニケーションの取り方というか、自分たちがお客さんの力を引っ張り出して、そのお客さんの力をまた生かして盛り上げて、というやり取りを常にやっていて、そのスキルがやっぱり上手いと思います。


ーーなるほど。では最後に、今後の展望を。


浅野:音楽に関しては、僕がニューオーリンズで感じたものだったり、母親から感じたものだったり、ハードコアシーンの皆さんから感じた“シンプルな音楽のエネルギー”を、自分ももっと強く感じて、少しでもその気持ちを誰かとシェアしていきたいですね。もちろん、そうした情熱は俳優業でも一緒です。モンゴルに行ったときに、砂漠の中にあるインターネットカフェで、子どもたちがかぶりつきで映画を観ていたんですよ。そこで夢を持って「こいつみたいに生きようぜ!」って彼らが言ってくれるなら、こんなに素敵なことはないわけです。だからこそ、自分が必死に生きないといけないと思っています。(ISHIYA)