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MANNISH BOYSにおける、斉藤和義と中村達也の絶妙な関係性とは? 新作『曲がれない』から分析

2015年06月23日 19:21  リアルサウンド

リアルサウンド

MANNISH BOYS

 MANNISH BOYSは、かなり特異な成り立ちのバンドだ。ニューシングル『曲がれない』は、そんな彼らの特質がよくあらわれている。


 斉藤和義と中村達也が飲み屋で話すうち意気投合してバンド結成、というエピソードはよくあるストーリーだが、斉藤と中村の関係はボーカリストとドラマー、あるいは歌い手とそれを伴奏するミュージシャン、というような平坦で一方的なものではない。むしろ斉藤が中村の才能のみならずキャラクターまでも面白がり、自分は一歩引いてでも彼の個性を前に出して引き立たせようという意思が感じられるのが面白いところなのだ。これは斉藤と中村の共作曲が多いとか、中村がドラムだけでなくギターやベースも弾き、時にはリード・ボーカルもとる、といった役割分担だけのことではない。中村のパワフルでエネルギッシュなプレイが斉藤の音楽世界をバックアップとするというより、そのキャラクターやライフスタイルまでもが斉藤の表現世界と一体化することで、このバンドならではの新境地を開拓しているのである。実際、MANNISH BOYSにおける中村達也は、ほかのどのバンドやユニットにおける彼よりも、「らしい」と思える。ある意味で中村のリーダー・バンドであるロザリオスよりも、達也という人間が感じられるのだ。ミュージシャンの人格や人生と、音楽表現(作品)を過剰に重ね合わせることは愚かだし、ある意味で危険でもあるが、確かにそこで聴ける中村達也は、ぼく(たち)のよく知る達也という人間そのものなのである。と同時に、彼にはこんな面もあったのかと気づかされる。それは斉藤という懐が広く多彩な表現方法をもつ優れた音楽家と一緒だからこそ表現可能だったのだ。


 中村は、単なるリズム・キープ以上に彼のキャラクターを前面に出した自由奔放で野性的でエモーショナルなプレイが特徴だ。中村のプレイがエモーショナルなのは単に手数が多いとか音量がデカいというだけではない。彼はただリズムを刻んでいるだけでなく、時に「歌って」いるのである。ブランキー・ジェット・シティで浅井健一が、スターリンやタッチ・ミーで遠藤ミチロウが、ゴールデン・ウエット・フィンガーズでチバユウスケが歌うバックで叩きながら、中村も一緒に歌っている。そのロマンティックとも言える歌心が彼のプレイの最大の魅力なのだ。もちろんその饒舌さを邪魔に思うボーカリストもいるだろう。だが斉藤はそれを面白がり、なら思う存分歌わせてしまえばいいと考えた。さすがに鋭いし懐が広い。


 もちろん斉藤にとっても、中村のエネルギッシュでパワフルなプレイ、天真爛漫で自由奔放なキャラクターによって触発され、後押しされ、彼単独では、あるいはほかのミュージシャンとでは出せない、あるいは出しにくい、彼の荒々しくやんちゃでユーモアたっぷりの面が見事に引き出されているのは見逃せない(2011年のソロ・アルバム『45 STONES』は中村との出会いも作品作りの契機になっていると思える)。つまりお互いが自分を表現するために理想的なパートナー関係となっている。真摯で生真面目で批判精神に富んだシンガー・ソングライター、あるいは緻密でこだわりの強い完全主義的な音楽家としての斉藤しか知らない人には当初戸惑いもあったかもしれないが、お互いの音楽遍歴や人生観、生活感が素直に反映されたMANNISH BOYSの近作や、「曲がれない」を聴くと、バンドとしていい意味でバランスがとれてきた印象だ。


 最初はまさかここまでMANNISH BOYSでの活動に本腰を入れることになるとは思わなかったが、この二人ならではの良さはちゃんと残っている。彼らのように周りの思惑など関係なくやりたいことをやりたいようにやり、しかもそれが自己満足に陥らずポップ・ミュージックとしての楽しさが聴き手に伝わるようなバンドは少ないだけに、無理のない範囲で活動を続けてほしいと願っている。