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アイドルの「恋愛禁止」は守り続けるべきものなのか?  香月孝史が歴史的経緯を踏まえて提言

2015年06月22日 18:01  リアルサウンド

リアルサウンド

朝井リョウ『武道館』(文藝春秋)

 秋元康は、6月13日のTBSラジオ『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』に生出演した際、アイドルグループの運営、管理について次のような話をしている。


(参考:アイドルとファンが抱える“心の闇”の正体とは


『面白がってこれはこうしよう、あれをこうしようってやる時代は終わりましたよね。いままではマイナスなことや出来事を、ある種の地下アイドルの延長線上として、シャレでやってたところがあるじゃないですか。でもそれがだんだんもう、何をやってもシャレにならなくなってきたところで、それで「万策尽きた」という言葉を使ったんですけども。』


 いくらか補足すると、「万策尽きた」という言葉は、およそ2年前の2013年2月23日に同番組に出演した秋元が、いわゆるアイドルの「恋愛禁止ルール」について語る中で漏らしたものだ。当時は、AKB48の峯岸みなみが自身の「恋愛」報道直後に自ら坊主頭にした「事件」が生じたばかりの頃だった。今回、この「万策尽きた」というフレーズが再度呼び出されたのは、放送日の直前に話題になったAKB48メンバーの柏木由紀の「恋愛」報道を受けてのことになる。冒頭に引用した発言は、その柏木の報道について水を向けられた中での言葉であった。峯岸や柏木にまつわるそれらの報道が単なる芸能ニュースにとどまらないのは、いうまでもなく「アイドル」というジャンルにとって、「恋愛」が禁止だと考えられているからだ。そしてこの稿は、「アイドル」というジャンルが抱え込んでいる「恋愛禁止」といういびつな規範について問いを投げようとするものである。


 しかし、「万策尽きた」というフレーズが用いられた2013年の放送時に秋元が語っているのは、実のところ恋愛禁止がAKB48のルール「ではない」ということだった。秋元は、「僕は、恋愛禁止っていうのは、ひとつのネタとしては歌にしたり、ネタとしては「そうだよな、うちは恋愛禁止条例だからな」って言ったりしてるけれど(略)、決して恋愛が禁止なんではなくて」と切り出しつつ、同番組のパーソナリティを務める宇多丸との対話の中で次のように語る。


『秋元 たとえば、一番ファンの皆さんがおっしゃるのは、なんでペナルティが違うんだと。
宇多丸 ルールが違うじゃないかっていうのは聞きますね。
秋元 そうそう、一貫してない、と。それは、ルールがないからなんだよね。
宇多丸 そんなものは、本当はないから。
秋元 うん。ルールがないし、ペナルティの規則もないから。』


 このあと、秋元はメンバーのそれまでの経緯やキャラクターによって処置を考えるという趣旨の発言をしつつ、そこでどのような処置を考えても「狙っているように思われちゃう」として、そのことを「万策尽き果てたかな」と表現している。つまり冒頭に載せた発言は、「恋愛禁止」を含め、「シャレ」として繰り出してきた「ネタ」が、「ネタ」として許容される限界を超えてきてしまったという秋元の現状認識である。


 しかし、上記したような秋元の発言には、どうしても座りの悪さがともなう。彼が「恋愛禁止」を「シャレ」として認識しようとも、アイドル当人に課されてきたペナルティは現実だからだ。その点に関して秋元は、「メンバーは、どうしたら今まで応援してくださったファンが許してくれるだろうかということを考えるのだと思う」と応答している。つまり秋元は、「恋愛禁止」はアイドルの運営側が絶対的に決定するルールではなく、ファンに求められる規範と、それに対してメンバーがどのように判断するかに依存するものととらえている。これを、彼流のはぐらかしや欺瞞とのみ解釈して話を終わらせることは簡単だ。けれども、「恋愛禁止」という規範そのものの根深さは、ひとり秋元康やAKB48に還元できるものではない。宇多丸が同番組の中で、「恋愛禁止とかそういうアイドルのあり方っていう、80年代半ばからのレギュレーションが2013年に残っちゃってるのがまずちょっと不自然」と指摘していたように、「恋愛禁止」はアイドルというジャンルにとってきわめて古典的な枠である。秋元は数十年来続いていたその「恋愛禁止」という古くからの風潮を参照して、AKB48で「恋愛禁止条例」という「ネタ」を展開した。そう、いま「風潮」という言葉を使ったが、「恋愛禁止」が抱えるやっかいさは、それが特定の人物が取り決めた明確な規則というより、あくまで所在のつきとめがたい「風潮」だという点にある。


 AKB48や今日のグループアイドルシーン活況のはるか以前から存在している「風潮」だからこそ、それが誰によって維持されているのかははっきりと指摘しにくい。ただし、その「風潮」が引き続いてしまった結果、それは送り手にも受け手にもいつしか前提条件として内面化されていく。もはやあらためて宣言するまでもなく、各アイドルグループの運営やメンバーは、「恋愛禁止」をこのジャンルの普遍的な前提とした言動を行なっているし、テレビバラエティなどでもその前提で企画やトークが進行する。この「恋愛禁止」の理由については時に、夢を与える立場であるから、あるいは何かを代償にしてこの舞台に立っているから、といったたぐいの説明がなされることがある。しかしそれらは、この「80年代半ばからのレギュレーション」を、エンターテインメントとしての形も大きく違うはずの今日のグループアイドルシーンに引き続き温存させるロジックとしてはいささか弱く、またナイーブでもある。古典的な「風潮」を維持するロジックに寄り添う前に、そもそもその前提を疑ってよいのではないかというのがこの記事の問いかけでもある。


 というのは、この「風潮」は世間的な通念ないしは倫理観とは大きな齟齬を生むものだからだ。先の峯岸にまつわる騒動は、なによりその価値観の齟齬に対しての社会からの強い拒否反応としてあった。アイドル当人が自らへの衝撃的な「罰」をもって償わなければならないとごく自然に思い込んでしまうほどに「風潮」が内面化された結果、それは社会が受けつけがたい理不尽さや気味の悪さを生み出していた。AKB48以降のグループアイドルの広まりは、もちろん一方でアイドルというジャンルをごく一部のマニアックな輪の外に開かれたものにしてきた。このジャンルがそうした開かれた文化として根付き、継承されていくことを望むならば、「風潮」を固守し続けることの意義は、リスクの大きさに比してそれほど明快ではない。


 2010年代のグループアイドルシーンについてこの何年かの間に繰り返し論じられてきたのは、このジャンルがアイドル当人たちのパーソナリティと人間関係のダイナミズムに、エンターテインメントとしての魅力の多くを負っているということだ。それらは、いわゆる擬似恋愛のみにアイドルというジャンルが還元されてしまいがちな「風潮」に対して、このジャンルの面白さや奥行きの深さを信じる者たちからの異議申立てでもあったはずだ。さらにいえば、「何かを代償に」して「夢を与える」ことが、いつまでも「恋愛禁止」によってしか成し得ないとされるならば、それはアイドルというジャンルの可能性を低く見積もってしまうものなのではないか。もとより、「恋愛禁止」など課されていない他のエンターテインメントが、だからといって何かを代償にしていないとか夢を与えていないとかということにはならないのだから。ジャンルに限らず、タレントや有名人に対してファンが恋愛感情のようなものを抱くとしても、そのことと「恋愛」を禁じることとは次元が異なる話である。


 AKB48は秋元の言葉とは裏腹に、「恋愛禁止」をほとんど事実上のルールのようにしてみせている。このように「風潮」だったものをわざわざ可視化したことは、いかにも野暮ったい話にも見える。しかしまた、先の峯岸や同じくかつて「スキャンダル」が報じられた指原莉乃らは、その後の自らの立ち回りのクレバーさで支持を獲得して今日に至っている。結果的にそれは、ルールが野暮ったく可視化されたことで逆に「恋愛禁止」なる風潮を骨抜きにする、すなわちアイドルというジャンルが体現できる魅力が、もはや時代錯誤の「風潮」にからめとられるものではないことを示唆する例になった。これは、今日のシーンの体制にいるAKB48がいびつさを温存しながらも示す、「恋愛禁止」に対してのスタンスの現在地である。「万策尽きた」先にあるのがこのような超然としたスタンスなのであれば、それはより風通しのよい未来なのかもしれない。「熱愛」が発覚した時、それにタブーめいたニュースバリューを求めたがるような価値観が、そこでは軽快に置き去りにされている。


 あるいはアイドルシーンの大小のトピックをサンプリングしつつ著された朝井リョウの小説『武道館』は、まさにアイドルの「恋愛禁止」を主題にした作品である。アイドルファンでもある朝井がこの作品のラストで描くのは、「恋愛禁止」が矛盾を生み出す現状を反転させたかのような近未来である。それはあくまでファンタジーとして描かれた、「風潮」以後の世界だ。けれども、その爽快さを感じさせるファンタジーは本来、社会の価値観にとって非現実的なものではない。もちろん、朝井はそれですべてが平穏になるような単純なユートピアを想定しているわけではないし、ある「風潮」がなくなった先には別の「炎上」の芽だっていくらもある。しかし、このようにファンの目線から「風潮」の息苦しさを問い続けることは、ジャンルに対しての誠実さでもある。矛盾を生み続けるような習慣を疑わなくなった先にこそ、世間との絶望的な乖離は生まれてしまうのだから。(香月孝史)