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ceroがもたらした衝撃とは何か 日本のポップミュージック史のなかに新作を位置付ける

2015年06月03日 13:11  リアルサウンド

リアルサウンド

cero『Obscure Ride』(カクバリズム)

・洋楽先行という宿命


(参考:【インタビュー】ceroは日本のポップミュージックをどう変える? 「2015年の街の景色を音楽にすることができた」


 満を持してリリースしたceroの3rdアルバム『Obscure Ride』は、間違いなく10年に一枚あるかないかのマスターピースであり、この作品により日本のポピュラーミュージックの水準は一気に引き上げられることになるだろう。新時代のメルクマールたる大傑作『Obscure Ride』の音楽的達成とは何なのか。


 英語にgenuineという形容詞がある。「本物の」「正真正銘の」「混じり気のない」といった意味に訳されるが、日本でポップミュージックを創ろうという人間にとって、この言葉、というか感覚は、意識的であれ無意識的であれ、長い間付きまとってきたものだ。


 言うまでもなく、ロック、ポップス、ジャズ、ヒップホップ……ゲーム音楽や昨今のEDMを除けば、日本で流通しているポピュラー音楽の大半はそのオリジンを欧米に求める。であるがゆえに、自分の鳴らす音にgenuineな、「本物の」響きは宿っているのか――ミュージシャンたちは常に己と作品に対し、この極東の島国ならではの厳しい吟味を加えてきた。古くはロックは日本語で歌うべきか、英語で歌うべきか、内田裕也一派とはっぴいえんど一派に分かれて議論が巻き起こった「日本語ロック論争」というのもあったし、本場に少しでもアプローチするため海外レコーディングが大流行した時代もあった。


 退屈な歴史の話をしているのではない。たとえば、質・量ともにJ-POP史上屈指の実績と評価を誇る小沢健二が、長い沈黙を破って2002年に発表したきわめて洋楽的なR&Bアルバム『Eclectic』はいまだに謎めいた作品として評価が定まっていないし、オルタナロック界においては、いわゆる98世代の出現以降海外シーンとの時間差・品質差は劇的に縮められたものの、今も昔も洋楽先行の状況であることは、そのミュージシャンが先鋭的であればあるほど痛感していることだろう。何より日本の音楽シーンのマグマ的な原動力になっているのが「洋楽コンプレックス」であることは、少しでも縦軸で音楽を捉えたことがあるのなら、誰でも思い当たる。


 この、洋楽先行という宿命に対し「本物の」作品を追い求めていくという日本のミュージシャンのあり方は、cero『Obscure Ride』を通過することで、もしかしたら様相が変わってくるかもしれない。『Obscure Ride』は、内容面で最先端の洋楽作品に伍しているのみならず、大いなる刺激を洋楽から受け取りながら、日本のポップミュージックならではの「本物」を実現している。参照の跡は見えても、そこにコンプレックスは欠片も見当たらない。


・和製ブラックミュージックの作法


 日本人には再現が極めて困難な、「本物の」グルーヴをどこまで追求できるか――この命題にとりわけストイックなのは、ブラックミュージックの学徒であろう。実際、ヒップホップやレゲエといったジャンルでは本場に渡航するミュージシャンは今でも少なくない。より一般的なチャートアクションが望めるR&Bにおいても、アーティスト固有の世界観やパーソナリティ以前に、技巧の程度が問われることは常である。


 日本でブラックミュージックの再現を試みる音楽家は、ざっくり言うと二つの潮流に分けられる。一つは原理主義的アプローチをとる流れで、ファッションやスタイルからパフォーマンスまで、限りなく黒人のそれと距離感を詰めていこうとする者たちだ。こういったファンダメンタリストたちに対しオリジナリティの欠如を指摘することはたやすいが、本家とみなす対象へのアプローチとして模倣というのは古典にして王道といえるし、彼らが高い音楽的達成を獲得してきた事例は枚挙に暇がない。


 もう一つは日本人としての表現の中にブラックのエッセンスを取り入れようとする流れで、日本人が最も得意とする、舶来品を自家薬篭中の物とする手法を採用する者たちだ。具体例を挙げると、初期渋谷系におけるフリーソウルの流れや、ヒップホップにおいて等身大の日常をライムしたLBネイションの活動がそれにあたる。


 この二派は歴史上、時に激しく対立したり、時に交差することもあったが、巨視的にとらえれば、洋楽先行を宿命づけられた日本の音楽シーンを発展させ深耕するうえでどちらも不可欠な流れであり、補完的な関係であるともいえるだろう。


・『Obscure Ride』の骨太なビート


 ceroの新作『Obscure Ride』は、一言でいえば、日本が生み出した最高水準のブラックミュージックアルバムである。もともと、“エキゾチカ”をキーワードにボーダーレスな音像を作り上げていたceroだが、本作の先行シングル「Yellow Magus」「Orphans/夜去」あたりから急速にブラックミュージックに傾倒し始め、ここに至って明確な標榜として掲げられるまでになった。この間の経緯については本人たちのインタビューなどを参照してほしいが、シティポップの旗手としてceroを認識していたリスナーにとっては、驚くべき変貌を遂げた印象を残すかもしれない。


 ceroのブラックミュージックへのアプローチを前述の2タイプに当てはめると、明らかに後者のように思える。ceroのメンバーはドレッドヘアでもなければブリンブリンで装飾しているわけでもない。何よりこれまでの彼らの楽曲を知っていれば、そのポップな感触に、原理主義的なブラックミュージックへの幅寄せを感じ取ることはまずないだろう。


 ところが、である。『Obscure Ride』で聴くことのできる濃厚なグルーヴは、かなりダイレクトに“黒い”。強力なリズム隊は時にマッチョですらあるし、高城晶平のヴォーカルはメロディやコードといったポップスの重要構成要素よりもむしろリズムとの親和性がきわめて高く、歌とラップの臨界点をつないでいく技術的達成には目を見張るものがある。


 盤石のリズムの上を浮遊するカッティングギターや鳴り物は、頸木から解き放たれたように奔放に響いて気持ちのいいヨコノリを発生させているが、この自由さは同時にメンバーの現在の精神状態を象徴しているようにも思える。


 もちろん、肉感的なフィーリングは00年代ネオソウル以降のアブストラクトな再構築を経たものであり、きわめて洗練されている。『Obscure Ride』の直接的なモチーフとしては、ロバート・グラスパーやディアンジェロなどの名前が挙げられるが、個人的にはジ・インターネットが放つメロウネスとの同期を感じた。


 ブラックミュージックの学徒は、そのまっすぐな探究心が時に魅力となることもあり、黒人への“憧れぶり”がジャンルにまで昇華したのがブルーアイドソウルと呼ばれる白人ソウルだったりもするが、『Obscure Ride』におけるceroに、そういった書生臭さはない。メンバーは相変わらず飄々とした都会的な佇まいであるが、ブラックミュージックへのアプローチは実に堂に入っている。そして憧れだけではない、冷静でロジカルな手さばきも垣間見える。この涼しい顔をした青年たちからこれほど骨太なビートが生み出されているかと思うと、痛快にすら感じられる。


・ますます冴えわたるリリシズム


 ceroは『Obscure Ride』において、ほとんどgenuineなグルーヴを手中にしているが、それは原理主義的なブラックミュージックの再現ではない。あくまで2015年東京のポップスとして作品を成立させている。その背景には彼ら本来の強みであるリリシズムがあり、それにますます磨きがかかっていることも見逃せない。


 obscureとは、「曖昧な」「はっきりしない」という意味であるが、現実と幻想、記憶と忘却の間を人称や視点を変えながら縦横無尽に描き出す彼らの詩世界は、枯れることを知らないイメージの源泉であり、それぞれの曲が短編小説のようでありながら、連作のごとき有機的連携を感じさせもする豊潤なものだ。まさにobscureで、ダイレクトなメッセージやアジテーションなどどこにも見当たらないが、言葉そのものは“ゆるふわ”物件とは一線を画す、非常にエッジの立ったものが多くセレクトされている。


 そしてそういった言葉を紡ぐ、高城晶平のヴォーカルの進化にも触れておきたい。本作における高城のヴォーカルについて、例えば久保田利伸に迫るような技巧の高さを感じさせる部分もあるが、技術的進歩もさることながら、言葉ではよく言われるものの具現化が難しい“フロー感”を、見事に現出していることに注目すべきだろう。ポップなメロディとラップ、効果的に挿入されるスキャットやフェイクは限りなくシームレスに繰り出され、多少のパワー不足を補って余りある歌唱は、本当に気持ちのいいグルーヴとして結実している。その気持ちよさがリリシズムと融合したとき、そこにはストーリーテリングの醍醐味がある。この構造の結実を“フロー感”と呼びたいのだが、これは実際に、『Obscure Ride』に対する腰と脳の反応で確かめてもらいたい。


 そしてride、つまり乗り物だが、次々と移り変わるobscureなイメージの洪水は、まさに移動中にしか得られない精神の高揚と不可分のものである。ceroの音楽が描こうとするのが、はかなく不確かでそれでも胸を震わせる衝動のようなものだとすれば、この曖昧な乗り物に身を委ねる時間を至高の芸術体験と呼んでも、少しも大げさではない。『Obscure Ride』が鳴っている間、私たちの日常風景は確実に違う色彩を放っている。


・レプリカとしてのリアリティ


 もろにディアンジェロな1曲目「C.E.R.O」には、「Contemporary Eclectic Replica Orchestra」という、彼らの名称を捩ったフレーズが登場する(本来は「Contemporary Exotica Rock Orchestra)。ここで高城晶平が用いたレプリカという言葉は、彼らのマニフェストとでもいうべきものだ。


 そう、ceroは日本のミュージシャンとして過去最高水準のグルーヴを達成しながら、彼らの身上はあくまでレプリカ、フェイクとしての音楽を追求していくスタンスにある。これはある種の批評性というか、彼らのクールネスの表れなのだが、本物に対して真正面からぶつかっていくことだけが「本物の」音楽に到達する道筋でないことは、例えばビーチボーイズの継承者たるハイラマズがフェイク道をひたすら追求し、どのブライアン・ウイルソン・ワナビーよりも高い作品性を誇っていることからも証明されている。とりわけ、所詮オリジンの存在しない日本でポップミュージックをやるのだから、レプリカとしてのリアリティを追い求めるほうがいい、そのほうがかえって自分たちのパフォーマンスが劇的に向上するということを、彼らは知っているのだ。


 『Obscure Ride』で描かれる東京近郊の風景は、「Orphans」のMVで街の景色がジオラマ風に加工されていたように、書割りのごとく描かれている。20~30年周期で街並みが劇的に変わる東京で鳴らされる音楽として、それは圧倒的なリアリティを感じさせる。5年後にオリンピックを控え、またもせわしなく変貌を始めた街をこの曖昧な乗り物で駆け抜けるとき、私たちはgenuineな東京のグルーヴに全身を包囲されるのだ。


・シーンへの誘発力


 『Obscure Ride』を一聴したとき、私は「小沢健二がこのアルバムを聴いてどう思うだろう」という興味が湧き上がった。なぜなら、冒頭で触れた『Eclectic』――「折衷」という意味だ――において小沢が示唆した方向性に、ceroは『Obscure Ride』で答えを提示しているからだ。長い間放置されていたように思える、ブラックミュージックのフィーリングと日本語ポップスとしてのリリシズムの融合、これを継承し大きな実りをもたらしたceroの快挙に、先駆者・小沢が感じるものは何か。そういえばceroは、オザケンの「1つの魔法(終わりのない愛しさを与え)」をカバーしてもいた。


 小沢に限らず、『Obscure Ride』はシーンに対する誘発力をもった作品だ。現在、シティポップとタグ付けされるバンドはメジャー・インディともに多数存在し、日本のシーンは優秀なリリシストとメロディメーカーの宝庫といえる。そういった人たちが、今回ceroが手中にした強力なグルーヴに触発され、自分たちの作品にどうフィードバックさせていくのか、興味は尽きない。


 これほどまでのgenuineなグルーヴを日本語のポップスで聴かせることに成功したceroの試みは、確実にこの国の音楽シーンの水準を引き上げることになるだろう。『Obscure Ride』以降のポップシーンがこれから始まるのだ。(佐藤恭介)