NHKスペシャルは「戦後70年 ニッポンの肖像」と題して、元日のプロローグを皮切りに戦後日本の歩みをたどる番組を連続して放送している。4月放送の「日本人と象徴天皇」(全2回)に続き、2015年5月30日からは「豊かさを求めて」というテーマの特集が始まった。
1回目のタイトルは「“高度成長” 何が奇跡だったのか」。日本人の誰もが「明日は今日よりも豊かになれる」と信じていた時代があったことを、いまの若い人たちは想像すらできないのかもしれない。1955年からの20年間、経済成長率は平均9.1%もあり、10%を超える年もあったのだ。(ライター:okei)
「懲罰より復興支援」に方針転換。工業力で復興目指す
番組は、米国が戦後「懲罰より復興支援」を重視した経緯を追った。終戦直後、GHQは占領政策で「軍事産業の廃止、財閥・大企業解体」などを行い、日本の工業は弱体化した。
これに対し、戦前から日本に行っていた投資を回収したい資本家で陸軍次官のウィリアム・ドレイパー氏が反対し、東西冷戦の深刻化もあって方針の転換が起きたという。
1950年の朝鮮戦争の軍事物資は日本から調達されたため「朝鮮特需」の好景気も起こるが、一時的なものに過ぎず、日本はまだ自力で経済成長できる力はなかった。当時、産業政策を担っていた通商産業省の官僚たちは、基幹産業に「重工業」を選ぶ。
理由は、繊維などの軽産業ならばすぐに復活していたが、「工業力で戦に負けた恥を雪ぎたい」との思いから。戦時中の兵器開発のために育成された技術者たちの存在もあった。実践的な知識を叩き込まれていた当時の学生たちは、自動車、家電、造船など、後の成長に欠かせない優れた技術者となった。
通産省は自動車産業の育成に取り組み、海外に負けない国産車が出来るまで、輸入車には40%もの高い関税を課すなど、徹底した保護貿易を行う。日本の市場を狙う外国からの圧力は相当なものだったが、通産省は矢面に立ち守り抜いた。
こうして1955年、成長率は8.8%を記録したが、誰もこれが長続きするとは思っておらず、いずれまた大きな落ち込みが来ることを覚悟していた。
「千載一遇の幸運を100%生かした」高度成長期
そんな中、大蔵官僚の下村治氏が、日本は今後10年成長を続けるという「高度成長理論」を発表した。下村氏は終戦直後、闇市で人々の旺盛な消費欲と生産意欲を見て、日本に大きな成長力があることを見抜いたという。
この理論は発表当時ほとんど相手にされなかったが、その説を信じ「所得倍増論」をキャッチフレーズに、法人税と所得税の大減税など必要な政策を打ったのが当時の内閣総理大臣の池田勇人だった。
さらに「人口ボーナス」が好景気に拍車をかける。戦後のベビーブームで、1965年から「働く世代がきわめて多い」国になった。これは、途上国が先進国に至る際に、たった一度だけ起こる現象だ。
子どもも高齢者も少ないため、働く世代の負担が少なく、貯蓄や消費に回せる。この頃、テレビや自動車が一気に一般に普及しだした。下村治氏が当時を振り返った言葉がある。
「本当に文字通りの千載一遇の幸運を、我々は100%に近い形で生かすことができた」
「日本の奇跡」は、戦後の復興のために「とにかく頑張って働いた」というだけなく、日本が蓄えてきた実力を引き出し、様々な幸運が結びついて実現したのだ。
池田勇人は「所得倍増」に政治生命を賭けた
現代の貧困や厳しい雇用状況の問題が語られるとき、高度成長期を知る世代からは「昔は良かった。貧乏でも夢があった」とよく聞く。そんなときいつも、今この時がどうにかならないかと思い悩む若い世代には何の役にも立たないという思いがする。
結局、腐らずに自分自身が努力するしかないという答えに行きあたるが、個人の努力だけでなく、やはり政策や雇用する側がもっと考えて欲しいと思うことを、番組ゲストで作家の五木寛之さん(82歳)が語っていたのが印象的だった。
「(総理大臣の)池田さんは『所得倍増』といい、政治生命を賭けた。相当無理して国民の実質賃金を上げたと思う。実質賃金が上がるってことは、企業の利益をある程度圧縮しなきゃいけないんです。つまり労働者にたくさん払って、会社の儲けや剰余金を積み立てたりしないで、苦しくても頑張って行こうと。そこには『働く人たちの方が大事だ』という健全なモラルがあったと思う」
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