トップへ

hideと付き合った濃密な日々 市川哲史が綴った「18年目のラヴレター」

2015年05月31日 08:01  リアルサウンド

リアルサウンド

市川哲史『誰も教えてくれなかった本当のポップ・ミュージック論』(シンコーミュージック刊)

 hideのドキュメンタリー映画『hide 50th anniversary FILM JUNK STORY』の公開が始まった。未見なのでその内容には触れないが、hideが逝ってもう17年も経ったかと思うとやはり感慨深いし、彼と付き合った濃密な10年間の記憶も蘇る。


 少しは(苦笑)。


 備忘録とは<忘れるのに備える記録>であり、要は記憶すべき事柄を簡単にメモするための個人的な雑記帳、を指す。とある別仕事の準備で現在、過去に書いた膨大な原稿や備忘録を読み直しているのだけれど、私の場合、備忘録に記す前に喪失しちゃってる記憶が尋常ではない。当時の私は致死量をはるかに超えるインタヴュー原稿を抱えた上に、リアル『酒呑み日記』の日々だったから、まったくもって残念な脳細胞なのだ。


 思えばhideと私の共通語は「ロック」と「酒」だけという、男の子そのものの付き合いだっただけに、馬鹿馬鹿しい呑んだくれエピソードは忘れるほど沢山ある。機会があれば紹介するが、今回はなぜ私がhideを大好きだったのかを想い出してみた。


 そういえばhideを語る際、生前(←この言い方、嫌だ)も現在も変わらず私は<「なんじゃこりゃあ!?」魂>というフレーズを、必ず多用する。だって彼のロック観そのものだから、だ。文句あるか。


 もう一気に想い出すぞ、俺は――。


 小学生時代のhideが、大好きな玩具のミクロマンをさしおいて、初めて買ってもらった「稼働も発進も合体もしねえ、ペラペラの紙1枚とビニール盤しか入ってないシングル」は、『ビューティフル・サンデー』だった。しかもよりにもよって、<本家>ダニエル・ブーンでも<あからさま>な田中星児でもない、「間違って買って凄え嫌な想いをした(苦笑)」トランザムのヴァージョンを、わざわざ買うか?


 ちなみに歌謡曲ではやはり、当時の小学生の常・フィンガー5にハマったという。


「LP全曲唄えるのよ(嬉笑)。あの頃の歌謡曲ってさ、向こうの曲を勝手に日本語詞にして唄ってるのがLPに入ってるじゃない? だから俺、未だにモンキーズ聴いてもフィンガー5の曲だと思って日本語で唄っちゃうの。恰好悪ぃぃぃぃぃ(泣笑)」


 中学校に入る頃には富田勲など、時代はシンセサイザーというものの存在自体が流行りかけていた。皆から<博士>と呼ばれ、後に本当に博士となり特許を獲りまくった、hideの当時の友だちは、シンセまで既に自作していたらしい。学研の回し者か。


 そしてその<博士>は塚本信也の『鉄男』みたいな部屋に住んでおり、そんな「機械の中にいるようなシチュエーション」を恰好いいと思ったhideを含む同級生たちは、こぞって大型ゴミ収集日にブラウン管やガラクタの争奪戦を繰り返したのだった。


「<博士>はちゃんとした必然性があって機械を置いてるわけだけど、俺も含めた周りの奴は単に憧れただけだから、部屋中ガラクタだらけにしてるだけ――だからすぐ片付けられちゃうの、親に。くくくく」


 そんなhide少年がロックに目醒めたのは中学2年、KISSのライヴ盤『アライヴII』だった。友だちに録音してもらったカセットで曲だけずーっと聴き続け、初めてジャケを見せてもらったら「なんじゃこりゃあ!?」。血を吐くジーン・シモンズの写真は「怖くて見れんかった(至福笑)」という。


 すっかりKISSの虜になったhide少年は、横須賀からはるばる東京・御茶ノ水まで遠征して古本屋や《ロック座》で『ML』『ロックショウ』のBNや洋書を買い漁ると共に、「電車の乗り方もその時初めて知った」そうだ。
にもかかわらず1978年春のKISS再来日公演を観ることは叶わなかった。理由は例の、ジーン&ポール・スタンレーの<ヤっちゃった子のアソコ写真コレクション>癖だった。


「ウチ美容室だから女性週刊誌沢山置いてあって、親がそれ読んで『行っちゃいかん』と」


 わはは。それでもhide少年はその後、「KISSの記事読みたくて買ってた音専誌の他の頁も見てるうちに、知らぬ間にレコードを借りたり買ったりFMのエアチェックをするように」なる。


 するとザ・クラッシュ『動乱』とウルトラヴォックス『システムズ・オブ・ロマンス』の両極端なパンク・ギターにも、レッド・ツェッペリンの楽曲で最初に聴いた「胸いっぱいの愛を」中間部の超カオス状態にも、「なんじゃこりゃあ!?」と、彼はロックにひたすら衝撃を受け続けていくのだ。


「俺が言うのも説得力ないかもしんないけど(爆苦笑)、とにかく俺はルックスで好きになったりしないのね。たとえばJAPANは『音楽専科』に載ってた、マニキュア塗った女の指が革パンの開いたジッパーの中に入ってる、向こうの雑誌広告の写真を見てレコードを注文したけど、やっぱりその1st『果てしなき反抗』の音に『なんじゃこりゃあ!?』と思ったもん。デヴィッド・シルヴィアンのひっかくようなヴォーカルには特に」


「他にも沢山あるよ。俺キーボードって嫌いだったんだけど、ストラングラーズの“デドリンガー”は聴いた瞬間『なんじゃこりゃあ!?』と(嬉笑)。ジャン(・ジャック・バーネル)とヒュー(・コンウェル)のヴォーカルにすべて救われてたけどさ」


 純朴な洋楽ロック少年よろしく、聴いたレコードの話を嬉々として語るhideの姿が好きだった。彼が初めて観た洋楽ライヴの話も微笑ましい。


 グラハム・ボネットがヴォーカルの時代のレインボーで、『ダウン・トゥ・アース』リリース直後だというから1980年5月か。そしてその初体験で最もぐっときたのは、「ステージのバックに輝く虹のセット」。ほえ?


「緞帳がなかったから、開演前からステージが見えるじゃん。『おい本物の虹だおいおい』『おい“Rainbow”って描いてあるぜおいおい』『始まるとあの虹が七色に光っちゃうんだぜおまえ』とかなんとか言っちゃって(激失笑)」


「そして『1曲目はなんだ?』とかの熱い討論を闘わせるわけだね。で始まった瞬間に、『ライヴアルバム(←『オン・ステージ』)には一部しか入ってなかったぞこの曲!』かなんか言って貴重がっちゃって。でも今冷静に考えたら、開演前に流れた単なるSEの“オーヴァー・ザ・レインボー”――どこでも売っとるわ!(雪崩失笑)」


 あらゆる意味で、hideは本当に優秀な洋楽リスナーだとつくづく思う。


 そして自分が「なんじゃこりゃあ!?」と思った数々のロック衝撃体験を、現在の少年少女たちにも味合わせたいと心底思っていた。Xにせよソロ活動にせよ、彼の行動原理はすべてここにあったのだ。


「ロックって、『うりゃあ!』とか『ほりゃあ!』とか『ほえ?』とか思わせるものがやっぱり凄い。『私が悪うございました!!』と素直に認められちゃうからねー。そんな僕みたいな人ってきっと多いだろうと思ってる。だって平均的な人だからさ、俺」


「『そういうのはロックじゃないよ』って言われりゃそれまでだけど、自分がそういうものに……助けられてるからね(照笑)。恩恵を受けてるからさ。あの『なんじゃそりゃあ!?』体験がなかったから、もしかしたら人生いまの2%程度が関の山かも。僕はいま愉しいから、そう導いてくれたものに対して足を向けては寝られないじゃない? 同じように……まがりなりにも生み出す立場としては、昔の自分と同じことを想ってる人がもしいるならば――どこにいるかは知らないが(苦笑)――『助けたい』なんておこがましい気持ちじゃないけれど、『どこかにいるはずだ!』と。『そいつよ聴け!』と。『俺だってそうだったんだよ』と(子供笑)」


 同じXのYOSHIKIも自己表現に対してトゥーマッチなんだけども、それは自分の美学を一分の隙なく具体化するための過剰さだ。較べてhideのトゥーマッチさは聴き手に重きを置いたというか、リスナーの<ロック少年少女たち>の方しか向いていない過剰さだ。


 リスナーとしても表現者としても、hideの「なんじゃそりゃあ!?」に裏表はない。


 ザ・マッド・カプセル・マーケッツがいかに面白い新人か、私に一晩中説いた。「コーネリアスの新譜が好き♡」との理由だけでひょいとV系/渋谷系の垣根を超え、小山田圭吾と対談した。縁もゆかりもないアマチュア・ZEPPET STOREに惚れこんだのを機に、損得勘定抜きでレーベル<LEMONed>まで設立して市井の才能に門戸を開放した。


 つくづく誠実な男である。


「だから市川さんが言ってくれる『なんじゃそりゃあ!?』の感触? たまに忘れることもあるけど(苦笑)、俺にとっては大切なことだと思うんだー。だから僕の音聴いて『なんじゃこりゃあ!?』と思ってくれたら嬉しいけれど、自分がどう思ったか――自分がそん時に思った気持ちをいまの20何歳になっても持てることが、僕にとっては重要なの。だから中学生のころの『なんじゃこりゃあ!?』をそのままここに持ってはこれないけど、いまでも別の『なんじゃこりゃあ!?』を思えるからね」


 最後に私がいちばん好きな、hideの「なんじゃそりゃあ!?」話を――。


 ヴォーカルのブラッキー・ローレスが骸骨を盃にして生き血を飲み干すライヴ・パフォーマンスが人気の、WASPを観に行った<サーベルタイガー>時代のhide。もちろん「なんじゃそりゃあ!?」絶好調である。


 ローレスが血をすすり客席に放り投げたその夜の骸骨は、hideの目の前に飛んできた。咄嗟に摑むと当たり前の話だがその骸骨はプラモデルで、底にはまだ血糊がべっとり。次の瞬間「すいません、その血を分けてください」と横の女性から丁重に頼まれ、「いいですよ」と快く手渡したら「ああー♡」とやたら悦ばれたらしい。


「もういたく感激しちゃってるから、『これだ!』と。ウチのバンドのライヴで――血を吐きました、肉屋で買ってきた生肉を食いちぎりながら(失笑)。当時はメンバー皆お金全然ないんだけど、豚だと身体に悪いからってんで牛にしたの。くくく」


 なんじゃそりゃあ。(市川哲史)