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SAKEROCK解散に寄せてーー岡村詩野がバンドのキャリアと音楽性を振り返る

2015年05月26日 17:31  リアルサウンド

リアルサウンド

SAKEROCK

 最初にSAKEROCKのメンバーと会ったのは、ファースト・アルバム『YUTA』がリリースされた時の取材の現場だったので、もう12年も前のことになる。メンバー全員が小さな部屋にちょこんと座っていた。みんなおとなしいな、最初はそんな印象だったと思う。


(参考:AV女優つぼみが星野源の求愛に応えた!? 名曲 「くだらないの中に」をアカペラ歌唱


 そうして、彼らの出身高校である自由の森学園の校風の話をきっかけに、彼らのユーモラスな音楽へのアプローチの出自をあれこれと探っていくうちに、基本みなどこか遠慮がちに口を開く中から、誰からともなく“うたごころ”といった言葉が出てきたことが今も強く思い出される。その後も取材中、何度もその“うたごころ”という言葉が口々に繰り返され、インタビュアーの私も、メンバーも、そこにいた誰もが何も疑問に感じることはなかった。それどころか、取材が終了する頃には、SAKEROCKは歌ものバンドなのだ、という意識がすっかり頭の中を占拠してしまっていた。もちろん、今でこそ星野源は歌い手として活躍しているし、その後のSAKEROCKの作品にもヴォーカルが挿入された曲が多数登場してくるが、このファーストの時点ではインストゥルメンタル・グループという認識。にも関わらず、すんなり“うたごころ”という言葉を消化できたのは、彼らの作品が“歌のない歌もの”という視座に基づいて作られているのが明白だったからだ。


 二度目に彼らに取材したのは、それから1、2年経った頃だっただろうか。暮れのかなり押し迫った日の夜遅く、撮影もあったので確かファッション雑誌のインタビューだったと思う。当時既に彼らは飛ぶ鳥を落とす勢いだったが、でもやりたいことをただカタチにしているだけ、相変わらずそれを的確に言葉にするのは得意ではなく…といった素朴なモティヴェイションが会話のはしばしに現れており、とはいえ、メンバーそれぞれにプレイヤーとして個性を放ち始めていたことから、バンドとしての骨格が固まってきたことを自覚している、そんな印象に変わったものだった。その時、風邪で熱を出したといって大きなマスクをつけた星野が、帰り際に自分一人で作ったソロのデモがあるんで聴いてみてください、と渡してくれたCDRは今も大切に手元に残してある。まさかその星野が後にソロとして武道館のステージに立つことになるとは想像していなかったが。


 気がついたら彼らはチケットがなかなか手に入らない人気バンドとなり、メンバーの脱退、別ユニットやソロでの展開も増えていったが、それぞれの持ち場で力を発揮するようになっていった。だが、不思議と彼らの匂いは何ら変わることなく……いや、もちろんスキルは間違いなくあがっているし、アレンジのヴァリエイションも徐々に広がっていったが、彼らは活動してきた約15年間、10代の頃の仲間と好きなことを自分たちのペースで平熱のまま続けていったような気がしてならない。一切ブレることなく、惑わされることもなく。そういう意味では徹底して頑固なバンドだったと思う。経験を積み、キャリアを重ねていけばいくほど、手練になっていく。その手練ゆえの魅力ももちろんあるし、それがSAKEROCKというバンドをここまで大きな存在にしたのも事実だろうが、手練が引き起こす気の緩みを恐らく彼らはどこかで嫌っていたのではないか。結局最後の最後まで彼らはフレッシュな彼らのままでいることを選んだということなのではないか。


 ラスト・アルバムとなる『SAYONARA』を聴いて感じたのも、その変わらないでい続けることの頑固さだ。ファースト『YUTA』の頃から驚くほど変わらないここでの10曲。それぞれが多忙を極めていることもあったのだろうが、約5年ぶりのアルバムだったにも関わらず、制作に極端に精神的負担をかけなかったことが、どの曲にもいい塩梅で空気穴を多くあけたような風通しの良さとなって現れた。重くなることもなく軽くなることもなく、今日も今日で淡々と音を鳴らして合奏をする。そこで聴いてくれている人達のために。僕らのために。


 彼らは熟達したバンドになることを拒んだ。ある一定の未熟さを残すことの潔さを求めた。その決断は、しかしながらプロフェショナルなジャッジだったと思う。『SAYONARA』とは『ARIGARTO』という意味。6月2日、両国国技館で開催されるラスト・ライヴは、きっと彼らが最初にやったライヴと同じ温度に違いない。(岡村詩野)