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アジカン・後藤正文が提示する“強い表現”とは? 「殴り合ったりするとかじゃなくて、幸いにも俺たちにはペンがある」

2015年05月26日 11:11  リアルサウンド

リアルサウンド

ASIAN KUNG-FU GENERATION

 ASIAN KUNG-FU GENERATIONが、約2年半ぶりとなるアルバム『Wonder Future』をリリースした。


 新作は、シンプルな曲調にロック本来の“熱”が生々しく息づくアルバム。レコーディングはフー・ファイターズのデイヴ・グロールが所有するプライベートスタジオ「Studio 606」で行われ、そのことが曲調にもサウンドにも大きな影響を与えている。


 「強い表現とは何かを考えた」――と語る後藤正文に、今、アジカンはどんな音を鳴らし、どんな言葉を歌うべきと考えたかを訊いた。そして彼が2015年の日本の社会の状況をどう見ているのかを語ってもらった。非常に示唆的な対話になったと思う。(柴 那典)


・「アジカンが背負うものは大文字の『ギターロック』」


――今回のアルバムの制作はどういうスタート地点から始まったんでしょうか。


後藤正文(以下、後藤):去年の2月、『NANO-MUGEN COMPILATION 2014』に向けて「スタンダード」の作業をしていた頃ですね。次はエモとかラウドとか、そういうアルバムを作るのがいいんじゃないかと。「実現するかどうかわからないけれど、デイヴ・グロールにプロデュースを頼んでみたいんだよね」という話をみんなにしました。


――デイヴ・グロールと仕事をしたいという思いは最初からあったんですね。


後藤:それを最初にメンバーに伝えたんです。みんなもそれはいいんじゃないかということだったので、一度打診してもらおうということになりました。『THE FUTURE TIMES』の取材を通じてのパイプもあって連絡はついたんですけど、ツアー中なので時間がなくてプロデュースはできないということで。でも、スタジオを使ってもいいよと。


――デイヴ・グロールにプロデュースを頼みたいということは、どういうところから思ったんでしょう?


後藤 :彼らの『ウェイスティング・ライト』というアルバムがあるんですけれど、1曲目の「ブリッジ・バーニング」の冒頭でデイヴ・グロールがシャウトするところがあるんです。「ア゛ー!!」みたいな声で。みんなと「これだよね!」って話をして。それと比較して、自分達が小手先みたいなものに走ろうとしていないか、それぞれのフレーズに説得力があるのかどうか。そういうことは考えましたね。


――そのデイヴのシャウトがキーワードだった。


後藤:制作の中で、「お前、それデイヴの『ア゛ー!!』に勝ってんの?」って話はよくしました。理詰めで考えたキレイな和音よりも、あのシャウトの方が強いエネルギーがあるよね、って。そのまま真似するわけじゃないけど、ああいうことをやっていかないと、どこまでも届くような強さは宿らないという話はしていました。


――つまり、難しいことやセンス競争じゃなく、衝動的な気持ちよさと音楽をイコールで繋ぐことが自分たちにできているのだろうかという問いかけもあった。


後藤:感情がアウトプットするには技術が必要だと思うんです。たとえ遠回りであっても出てきたものが説得力を持っていればそれでもいいんですけどね。だいたい、良くないものは説得力がないので。


――このアルバムには、その説得力がありますよね。基本的にはシンプルな8ビートのハードロックだけれど、音にちゃんと説得力が宿っている。そこはフー・ファイターズのスタジオで録ったことの結実なのではないかと思います。


後藤:そうですね。どの楽器も録音した音自体がいいのでそれがすごく嬉しいなと思いました。音がいいってだけで聴き手にとってはフックになるし、届くまでのスピード感があがる。自分たちの感情はコード進行や音色に翻訳しているつもりですけど、そういうものが、回りくどくなく届く。言葉はスピードが遅いんです。だから言葉に関しては、まずは受け手にいったん抽象的でもいいからぶつかって、時間を掛けて相手の中でその意味がほぐれて出てくればいいと思っているんです。そういう言葉とサウンドのバランスを考えると、L.A.での録音は自分たちがやろうとしていることに合っていると感じましたね。


――遡ると、今回のアルバムの制作を始めた去年の2月はGotchのソロも作っていたタイミングですよね。その時のインタビューで後藤さんは「アジカンは背負うものが大きい」と言っていました。それがソロをやった理由の一つである、と。改めて、アジカンの「背負うもの」というのは、どういうものなんでしょうか。


後藤:大文字の「ギターロック」って感じがします。ちゃんと8ビートをやる。ダサくてもやるんだっていう。ダサくするつもりはなかったですけど(笑)。2拍4拍にスネアが入っているようなオーセンティックなビートのロックバンドって、周りを見てもどんどん減っているような気がしますからね。一方で、ポストロック的なプロダクションとかニューウェーブに近いものが多いですよね。あと、ソロでやった音楽性はアジカンとは食い合わせが悪いような気もした。やっぱりこのバンドでやるのはシンプルなものが一番気持ちいいのかなと思いました。いわゆるロックというものに、いい意味でも悪い意味でもこだわってやっています。


――それはどういう意味で?


後藤:ありとあらゆる手法が存在するのに、ギターロックの枠から望んで出ていかないわけですよね。アジカンの生真面目さとか不器用さみたいなものは、そういうロックが好きというところに回帰する感じがあります。


――リスナーが期待するアジカンのイメージというのはどれくらい意識しますか?


後藤:ファンが喜ぶかどうかというのは、あまり大きな問題ではないですね。もちろんソロと比較したら、喜んでほしいと思っていますけれど。ソロに関しては、どう評価されてもいいと思って好きなことをやっているので。


――以前には「アジカンでは自分なりにロックスターを引き受けようとしている」と言っていましたけれども。


後藤:ここ何年かはそういうモードにありますね。ただ、曲を書く時に「このくらいだったら喜んでくれるんじゃないかな」っていう考え方はリスナーに対して失礼なんですよ。自分の作品に対して、気合いを入れて、あたふたしたり緊張したり、右往左往しながらやる。それが、一番のリスナーへの誠意だと思うんです。誰かに喜んでもらえる可能性があるならば、それしかないと思うんですよね。


・「『歴史にどうやって接続するか』は大きなテーマ」


――フー・ファイターズも新作『ソニック・ハイウェイズ』で、全米各地のスタジオの歴史を紐解きながらそこで録音するというアルバムを作っていましたよね。デイヴ・グロールのスタジオでレコーディングするというのは、単に「いい音で録りたい」というだけじゃなく、そういう同時代的な問題意識を後藤さんも共有していたんじゃないかと思うんですけれども。


後藤:歴史に接続しようという機運は、デイヴ・グロールだけじゃなくて日本でもあると思うんですよね。河出書房新社から池澤(夏樹)さんの編集で古典の日本語訳の全集が出たりしていることも含めて、「歴史にどうやって接続するか」ということが今の時代の表現の大きなテーマになっていると感じます。音楽も新しい技術が出てくれば出てくるほど、追いやられていくものもあって。でも、将来に向けて残していきたいものもある。そういう気持ちになってはいたんですよね。デイヴはもっと壮大にやっているけど。


――デイヴ・グロールの試みに共感する部分もありましたか。


後藤:本当に素晴らしいと思うし、あのアメリカですら、川の流れみたいに文化や技術、音楽の歴史を繋げていく作業が必要なんだってデイヴは思ったんでしょうね。僕もロスに行って、フー・ファイターズのスタジオを使いたかったのは、自分が好きだったロックの歴史に繋がりたい気持ちがあったんです。


――ロックの歴史に繋がりたい気持ち?


後藤:自分達が使わせてもらったのは、ウィーザーの『ピンカートン』とか、アッシュの『メルトダウン』とか、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンとかレッド・ホット・チリ・ペッパーズとかニルヴァーナとか、そういう自分が好きだったバンドの作品が作られた機材なんです。で、そこにはその機材を扱うための技術や文化が張り付いているわけで。それと繋がりたい気持ちがあったんですよね。その流れの川下にいたい。デイヴにも、そういう気持ちがあったんじゃないかと思います。いわゆるアメリカのポップミュージックの歴史の川下にいるという意識。だから、あれは表敬訪問のような感じだったと思うんです。一方で、俺たちのやったことは、日本人として、影響を受けてきた音楽の血を受け継ぎにいくような、そういうことをしたいと思っていましたね。


――実際どうでした? 向こうのエンジニアと一緒に作業して。


後藤:日本人だからってナメられるかなとか思ってたけど、そんなことはなかったですね。ギターリフやフレーズにいちいち盛り上がってくれたし。あと、笑いのツボも近くていいなと思いました。というのは、ある曲の仮タイトルを聞かれた時に、俺たちが「ヤマハード」って言ったら、スタッフがみんなメチャクチャ爆笑していて。山ちゃんがおとなしいやつだというのは向こうのスタッフにも一緒に作業して伝わっていたので。ウィーザーの話をしながらドライブして、飯も一緒に食べにいったりもしました。とにかく、本当に音を良くしようと思って頑張ってくれている感じはありましたね。


――こうすればギターの音が良くなるとか、ドラムの音がよく録れるとか、そういうところを掴んだ感じはありましたか?


後藤:最初に、率直に「どうやったらフー・ファイターズみたいないい音で録れるのか?」って訊いたんですよ。そしたら「お前らはいいミュージシャンなんだからあまり考えないでリラックスしてそのままやれ」みたいなことを言われて。「何を言ってるんだろう?」と思ったんですけど、後から考えれば、たぶんコツとかじゃないんでしょうね。いい音・悪い音という感覚が日常的なものとして現場にある。スタジオとか土地にいい音が文脈として張り付いているというか、その人たちの耳を通せばいい音に仕上がってくる。だから、細かい目盛りがどうこうとかじゃなくて、経験として身体で覚えているんだな、と。「ここに来た意味はそれなんだな」と思いました。言葉では説明できないけれど、聴いたらいい音だというのがわかる。そういう土地や場所に張り付いた技術を感じることができた。


――アジカンって、ルーツにはUK、US両方のロックがありますよね。音楽性もいろんなチャンネルを持っている。その中で、曲調としてはどういうものを前面に出そうと意識しましたか。


後藤:シンプルな8ビート、それくらいかな。あと、ヘヴィーとかラウドとかエモとか、そういう言葉で言い表わせるもの。だから、パワーポップはざっくりと外しているんです。過去の曲で言うと、「ループ&ループ」はこのアルバムには入らない。「リライト」はギリギリ入るけど、間奏の部分がちょっと日本的すぎるかな。それくらいのイメージですね。あとは、基本的に「A-B-サビ」のパターンはなるべく避けて、構成も複雑化していかないように、シンプルに作っていった。


――USロックの曲構成が多いですよね。「ヴァース-コーラス-ヴァース」という。


後藤:そこにブリッジとか、向こうの人は「ミドルエイト」と呼んでいましたけど、そういうものが入ったりしてますね。あと、ブリティッシュなものをどれくらい入れるかも考えた。ビートルズのサイケ感はアリだな、とか。最初はフー・ファイターズが『リボルバー』を演奏したようなアルバムになったらいいよねみたいなイメージだったんです。だけど、あっちに行ったらフー・ファイターズというキーワードを出すのはやめようと。それだと本当にお客さんになってしまう。あのスタジオに物真似をしに行っているわけじゃないから。で、結果的には、やっぱり『ウェイスティング・ライト』には全然ならなかった(笑)。


――出来上がったものはアジカンそのものですね。


後藤:1曲目を録り終わった時点で「やっぱり、ああはならないね」って(笑)。俺たちは俺たちらしく、一番いい音で録るのが理想だとみんな感じたと思います。そこからは、ギターをダブルにして重ねたりとか、現場のサウンドに合わせて、向こうで柔軟にプロダクションは変えていきましたね。


――シングル「Easter / 復活祭」は、曲が完成した段階で重要な曲になるという感覚はありました?


後藤:僕としては、あまり気負わずに作ったんですけどね。でも、それがメンバーやスタッフ達に気に入ってもらえた。彼らが喜んだりしているということは、それはいいということだと思って。最近は、そういうジャッジはメンバーの意見を尊重しています。


――「Wonder Future / ワンダーフューチャー」はタイトル曲でもあるし、重要な位置付けの曲ですよね。これはどういうところから作ったのでしょうか?


後藤:ざっくりと言うと別れの曲ではあるんですけど、若い世代に託しているものもあるし、そういう人たちへのメッセージと、老いゆく自分達への「まだまだだぜ」というエールも込めています。あと、アルバムは毎度これが最後だと思って作っているから、ここまでの自分達に別れを告げるというか、葬っていくような感じもある。


――「未来」という言葉をこのアルバムのタイトルに冠しているということについては、どういう考えがあったんでしょうか。


後藤:いま自分達が立っているこの場所も、10代の自分達から見れば驚くべき未来、つまりは「ワンダーフューチャー」なんですよね。まさかフー・ファイターズのスタジオでレコーディングしたとか、10代の僕が聞いたら腰を抜かすはずなんですよ。絶対に信じないと思う。とても夢のあることだと思います。何があるかわからない、ということですね。ジャケットが白いのもそういう意味があって。ここからはみんなが、それぞれ好きに書いていけばいいんだと。だから今回のアルバムのジャケットには、イラストも無くてよかった。


――真っ白なジャケットに文字だけが書かれたデザインになっていますね。


後藤:今回のジャケットはエンボス加工で『Wonder Future』という言葉が刻み込まれているんです。だから、凹んでいる。それは、未来なんてどの地点から見たって真っ白なんだから、そうやって俺たちは一文字ずつ刻んでいくしかないんだという決意でもあって。アジカンが次に何を作るかもわからないし、思い描くことはできても、それを本当に実現できるかどうかは誰にもわからない。明日のこともわからないのは恐ろしいことだけど、同時にワクワクすることでもある。


――デザインにも意志がこもっている。


後藤:そうですね。逆にシングル『Easter』のジャケットは文字の部分が膨らんでいるんです。それは、ある種の墓標みたいなものをイメージしているんですね。そこからの復活であると。


・「みんなの鑑賞する視点を少しでもずらしたい」


――このアルバムは、歌詞も重要な要素になっていると思います。推敲を重ねて、何を歌うかということをかなり意識して書いた言葉なんじゃないかと思うんですが。


後藤:「自分が感情移入できたのかどうか」という聴き手の感情だけがこのアルバムの物差しにならないように注意して書きました。最近はどんな表現物も受け手が「いま・ここ・自分」みたいなところからばっさりと斬ります。歌われている心情や言葉が、自分にわかるかわからないかということだけで作品の価値が判断されてしまう。つまり善し悪しではなくて、好きか嫌いかだけなんです。そういう「自分」という物差しから、みんなの鑑賞する視点を少しでもずらしたいと思いました。


――耐久性の高い表現が意図的に選ばれていると思いました。


後藤:物語みたいなものを立ち上げて、それを外から眺めてもらった方がいいんじゃないかと思ったんですよね。多くのソングライターは自分の内側から言葉を書いて、みんなはその叙情性と自分の感情が重なり合うかどうかを表現のひとつの善し悪しの評価基準にしている。そうではなくて、小説を読むように感じ取れる歌詞、そこにちゃんと物語があって、ある種の文学性やメッセージが立ち上がるような作品でありたいということは考えて書きましたね。


――これは僕の感じたことなんですが、このアルバムは、フー・ファイターズのスタジオで録音することで、アメリカのロックの文脈に繋がることを意図していたわけですよね。ということは、言葉においても、ブルース・スプリングスティーンとかボブ・ディランとかニール・ヤングとか、そういう北米のロックミュージシャンとの繋がりを意識したんじゃないかと思ったんです。彼らが、当時どんな言葉で時代を切り取ってきたかという、それと共通するスタンスを自らに課している気がしました。


後藤:ボブ・ディランのやっていることは本当にクールだと思うし、いく重にもすごいなと思います。ただ、アメリカ的だとも感じます。自分としては世界文学を意識したところがありますね。たとえば村上春樹の小説とか、国境を超えた普遍性があるんですよね。言葉によるイメージが限定されていない。どこか限定された地域にしか響かないようなドメスティックな世界観ではない。そういう言葉遣いをすることは意識していました。


――英語に訳せる言葉を使うとか?


後藤:そうですね。あとは、外国の小説を読んでいると、その景色が分からなくても伝わることとか、飛び越えてくる何かがあるんですよね。いつ、どこの国の言葉で書かれたものかわからなくても、時間や言語や国境とか、いろんな条件を飛び越えてくる普遍的な何かにはいつもタッチしたいなと思っていますね。


――そう思うようになったきっかけは?


後藤:アジカンはわりと世界中で聴かれていることからの影響もあります。ヨーロッパに行っても南米に行っても、日本と同じくらいのキャパシティでチケットが売れる。それはすごいことだと自分でも驚くので。外国の人に「いい歌詞だ」って言われたりするんですよ。そこにはある種の達成感があるし。


――そういう風に海外に届く、受け入れられるというのは、なかなか意識できないことですね。


後藤:ただ、もともとそういうことを考えて始めたバンドでもあるので。冠に「ASIAN」とつけて、俺たちはアジアのバンドだと名乗って、世界中の人に聴いてもらおうと思っていたから。それは10代のころに、パッとスケベ心で思い描いたことだったかもしれないけど、それがこうやって実になってくると面白いなと思いますね。


――ただ、書き方としては国境や文化を超えて届く普遍的なものにするという話でしたけど、テーマとしては、やはり2015年の日本の社会とリンクした歌詞にしようという意識を感じます。その辺はどうでしょうか?


後藤:今のことしか歌えないからですね。今感じていること、今思っていることがサウンドになるのが一番いい。そうでないと普遍性が宿らない気がするんです。優れている表現というのは時間や時空を超えて瑞々しくその人の前で立ち上がるんですけど、同時にそれが生まれた時代性みたいなものが色濃く刻まれているように感じるんですよね。70年代でも80年代でも90年代でも、レコードを聴いてそう感じます。そういう作品の方が逆に時間の審判に耐えうる気がします。だから、ある種の叙事性は持っていた方が表現としては強い。そして、俺たちはロックにこだわっちゃっているから、社会性とかも考えてしまうんですけど。


・「何かしないとヤバいという直感がある」


――今の後藤さんはロック・ミュージシャンとして政治的な発言も引き受けたりするわけですが、10代の時の自分がそういう風になっている自分を思い描いていましたか?


後藤:全く思い描いてなかったですね。歌にしてまで人にわかってほしいことなんてなんにも無かったです。歌で自分の思いを伝えるって、なんでそんなことしなきゃいけないんだって思ってた。当時、先輩に「どうして日本語の歌を歌えないのか」と問われても、僕は「何も伝えたいことが無いから、スワヒリ語だって英語だっていいんだ」って言ったこともありますし。口に出して気持ちよければ何でもいい、と。


――でも、今は言葉を通して伝えたいものがある。


後藤:そうですね。ちゃんと歴史を振り返れば、ポップミュージックにどんな言葉を乗せていったら、どう共有されてどんな効果があるかって、いろんな人が考えながらやってきたわけですよね。日本語にしても、どういう言葉がロックに上手く合わせることができるのか、そういう先人たちのトライアルの一つの成果として現在の自分の歌詞があるはずで。そういうことも意識します。そして、何年も前から「ちゃんと書きたい」という気持ちにはなっています。というより、今は「書かずにはいられない」と言った方が近いのかもしれないですね。


――書かずにはいられない。そこには何らかの危機意識みたいなものもある?


後藤:ある種のトリガーというかフックのようなものを用意してでも、みんなが立ち止まる瞬間を作りたいと思いますね。


――それは何故でしょう。


後藤:それはもう、今がロクでもない時代だと思うからですね。僕の感覚では、生きてきた中で一番社会に閉塞感がある。これをどうにかしたい。どうやったらいいかわからないですけど。深刻さを訴えるのか、あるいは別のレイヤーで楽しみを立ち上げて人々を集めるのか、とにかく、何かしないとヤバいという直感がある。この直感に対しては正直になるのが表現者としては正しい気がするんですよね。


――いろんな曲の歌詞にも、その危機感が現れていると思います。


後藤:警報ランプみたいなものが灯っているイメージがずっとあるんです。それがただの気のせいであったらいい。余裕があって豊かな社会だったら僕も歌うことが変わると思いますよ。そうじゃないから。書くってことには、最悪な状況を描くことによってそうなることを未然に防ぐという力もあると思うんですよね。シグナルはどこからともなく届いている気がする。「書きなさい」と言われている直感がある。それだけなんですよね。ことさらに政治的なことを訴えかけているわけではないんです。


――そういう意味でも、後から「これはこのことを指していた」とわかるような言葉の使い方が選ばれているなと思いました。


後藤:「これは何のことを言ってるのかな」とか、聴いた人に考えてほしいですけどね。社会的なことはどうしても気になります。例えば、機会は公正であってほしいと思う。生まれながらに親を選べない子供達が、金銭的な理由で高等な教育を受けるチャンスが減ったりするのはおかしいと思う。そして、僕はミュージシャンだから、世の中の人が週末に音楽を楽しむ余裕のある社会のほうがいいと考えています。だから、そのためにできることがあればやりたい。そういうことを邪魔するような連中のことは率直に良く思っていないから、どうやって対抗していくかが文化の役割だという気がする。俺たちはみんなを幸せにするためにやっているんです。「そんなことお前がやらなくていいよ」と言われたとしても、自分以外の誰かが幸せになってほしい。そのためには戦わないといけないこともある。


――戦わないといけない、というと?


後藤:殴り合ったりするとかそういうことじゃなくて、幸いにも俺たちにはペンがあるんだから、ちゃんと書かなきゃいけないよね、ということです。強い表現とは何かを考えなきゃいけない。クラムボンのミトさんのインタビュー(http://realsound.jp/2015/03/post-2808.html)にあった、「強い表現じゃないと立ち向かえない」という言葉はすごく響きました。僕からすると、デイヴ・グロールのスタジオで8ビートを録ることが今のアジカンにとって一番強い表現だと思ったからそうしたわけで。歌詞についても、それに相当するのは何だろうというのはずっと考えています。今すぐに言えるような答えはわからないけれど、「こういうことを書きなさい」と言われているような直感だけはある。時間が経ってみないと、自分でも言語化できないんです。たとえばこうやって柴さんと話しながら、「そういう風に考える人もいるんだ」って、僕の中でも客観化、対象化しているところもあるし。


――これは一つの仮説なんですけど、アジカンのここ数作のアルバムのタイトルって、すごく象徴的なんですよね。CDが売れなくなった時代の『マジックディスク』、震災後の『ランドマーク』のように、あってほしいもの、なくなってほしくないものが、タイトルに掲げられている。


後藤:なるほど。確かにそうかもしれないですね。


――今回のアルバムに『Wonder Future』というタイトルがついているということに、その連続性も感じるんです。つまり、そういう未来があってほしいという願いがこもっている。


後藤:それは間違いないと思いますね。いい意味での「ワンダーフューチャー」があってほしい。そういう思いはアルバムに託しています。素晴らしい未来が来たらいいのに、と。ワンダーじゃなくてワンダフルだったらいいのにって。それは、俺たちがどうにかするしかないですよね。だって、真っ白なんだから。そういう気持ちかな。僕は少なくとも、次の世代にはよりよいバトンを渡していきたい。そしてそのためには、俺たちも受け取ることをまだやめられない。受け渡しをちゃんと続けていくことが文化だから。素敵な未来が来たらいいなと思います。(取材・文=柴 那典)