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嵐は、J-POPの歌詞と音楽性の関係を更新するーー「青空の下、キミのとなり」の画期性とは?

2015年05月26日 07:21  リアルサウンド

リアルサウンド

『嵐はなぜ史上最強のエンタメ集団になったか』

 どういう歌詞をどういう音楽で歌うか、という問題がある。ポピュラー音楽の領域であれば、なおさらだ。「この内容にはこの音楽性が合う」というなんとなくの共通意識がある。フォークソングの響きには、四畳半の小さな世界がよく似合っていた。未来都市を歌うのは、やはりテクノポップだった。あるいは筆者からすると、1990年代後半からの女性R&Bの台頭は、J-POPの歌詞世界に女子会的空間を現出させた点に大きな意義があった(Crystal Kay「Girl’s Night」2001)。新しい音楽性の台頭は、新しい歌詞世界の台頭でもある。音楽の形式と歌詞内容は、無関係ではない。歌詞内容が音楽ジャンルに規定されるということがありうるし、反対に、歌詞内容が特定の音楽ジャンルを召還するということもある。そういう相互的な力学のなかで、楽曲というものは出力されているのだ(なぜ、ケータイ依存的な西野カナに対して、チャットモンチーは携帯電話を手放す(「シャングリラ」)のか!?)。


(参考:嵐は『ワクワク学校』でどんな授業を行なってきた? その内容を予習復習


 嵐の新曲「青空の下、キミのとなり」には、良い意味で予想を裏切られた。というのも、「青空の下、キミのとなり」というタイトルを目にした瞬間、筆者は「きっとさわやかなロックで、背後でアコースティックギターが鳴らされている感じなのだろうな」と思っていた。宣伝文には、「人と人が繋がっていくことの大切さを実感させられる歌詞と、ポジティブなエネルギーに溢れたドラマチックな曲調」とあったので、「GReeeeNみたいな感じね、はいはい」とタカをくくっていたのだ。これは、GReeeeNに対してもたいへん失礼な話である。とにかく、自分の好みとは異なる凡庸なロック/ポップスなのだろうと思っていたのだ。しかし聴いてみると、それは少し違った。


 むしろ、使われている音色(おんしょく)自体は、だいぶダンスミュージック寄りである。冒頭のシンセサイザーなんか、かなりハードな低音が鳴っているし、ビートも確信的に重いのが選ばれている。したがって「青空の下、キミのとなり」は、細部だけを取れば、けっこうハードなダンスミュージックに聴こえてもおかしくない。しかしここで重要なことは、そのようなサウンドが選ばれつつも、全体的には、タイトルから連想されるようなさわやかさを失っていない、ということである。「青空の下、キミのとなり」の最大の特徴は、バキバキした音色(おんしょく)を取り入れつつも、全体的にはさわやかな曲調になっているというバランス感にある。J-POPにおける歌詞と音楽性の関係を考えたとき、「人と人が繋がっていくことの大切さを実感させられる歌詞」を、このようなバキバキな音色で歌い上げたことは、意外と新しい試みかもしれない。


 「青空の下、キミのとなり」の冒頭数秒は、メロディや曲の雰囲気が、YUKI「メランコリニスタ」の冒頭に似ていると思った(それはつまり、Chicago「Saturday In The Park」に似ているということだが)。元JUDY AND MARYのYUKIは、ソロにおいて素晴らしい4つ打ちの楽曲たちを披露し、新しい世界観を切りひらいた。「青空の下、キミのとなり」は、歌詞と音楽性の関係を更新する可能性を持った曲だ。のちのち、そのように振り返られることを願う。(矢野利裕)