1987年、日本で10年ぶりにF1が開催された。舞台は鈴鹿サーキット。
当時のF1は、ホンダとアイルトン・セナのコンビが活躍を見せ始めた頃であり、ホンダV6ターボを搭載するウイリアムズが、アラン・プロストを擁するマクラーレンと、チャンピオンを争っていた。また、フジテレビのF1中継初年度、そして日本人初のフルタイムF1ドライバー、中嶋悟がデビューした年でもあり、日本は“F1ブーム”に向け、急激に加速していた。
10月の鈴鹿サーキットには、超満員の観客が詰めかけ、1000馬力以上を誇るモンスターマシンの走りをひとめ見ようと、世界屈指のテクニカルコースに目を向けていた。しかし、ほとんどの観客は、あることを期待していた。「ホンダの活躍」である。
しかし、その期待に反して、日本GPのウイナーとなったのは、フェラーリの赤いマシンであった。F187である。
F187は、グスタフ・ブルナーの設計によるマシンである。前年マシンのF186は、120度バンクのV6ターボエンジンに横置きのギヤボックスを組み合わせたものだった。しかしF187用のTipo033エンジンは、V型6気筒+ツインターボという点は変わらないものの、バンク角が90度に狭められ、ギヤボックスも縦置きに変更。これにより、マシン後端を狭く、そして低く抑えることに成功し、空力効率の向上に寄与している。また、ノーズも細くなった。
そんな野心的なF187を生み出したブルナーだが、1987年シーズン開幕を前にしてフェラーリを離脱。リアルへ移籍してしまう。そのため、ブルナーに代わってこのF187の熟成を担当したのが、天才とも言われたマシンデザイナー、ジョン・バーナードである。バーナードは、マクラーレンMP4シリーズの初期や、フェラーリ640、ベネトンB191、フェラーリ412T2など、多くの名車を手がけた人物。90年代初頭には、F1参戦を目指していたトムスF1のマシンデザインも担当している。
シーズン当初のフェラーリF187は、マクラーレン、ウイリアムズ、ロータスといった当時の3強から、一歩遅れた存在だった。サンマリノとモナコで3位表彰台に上がったものの、それが精一杯。フランスGPからオーストリアGPまでの5戦連続でダブルリタイアを喫するなど、信頼性にも問題を抱えていた。
バーナードは中盤戦以降、翌年マシンのデザインを手がけるために、イギリスのファクトリー(フェラーリはもちろんイタリアのチームだが、バーナードのデザインオフィスはイギリスに設けられていた)に籠ってしまう。そして、バーナードに代わって現場の技術部隊を指揮したのは、ティレルやホンダ第3期の準備(ホンダRA099)などを手がけた、ハーベイ・ポスルズウエイトだ。ポスルズウエイトの手によりF187は急激に性能をアップ。ポルトガルGPでこのシーズン初のポールポジションを獲得すると、ここから最終戦までの間にPPが3回、ファステストラップ3回、優勝2回と本格的な強さを発揮したのだ。
ウイリアムズ・ホンダのナイジェル・マンセルが予選でクラッシュして決勝欠場、チームメイトでこの年のチャンピオンであるネルソン・ピケも精彩を欠き、マクラーレンのプロストもタイヤバーストで後退……フェラーリを有利にした理由は多々あったが、F187を駆ったゲルハルト・ベルガーはロータスのセナに対して17.3秒の差をつけ、独走勝利を収めている。
実はこの鈴鹿での勝利は、1985年のドイツGP(ニュルブルクリンク)を、ミケーレ・アルボレートが制して以来の優勝。86年シーズンは未勝利だった。今年(2015年)のマレーシアGP同様、待望の復活勝利だったというわけだ(続く最終戦オーストラリアGPでもベルガーが優勝。なんと連勝を果たしている)。
鈴鹿のF1の、記念すべき初代ウイナーは、ある意味伏兵とも言えるフェラーリ。そのフェラーリF187は、鈴鹿サウンド・オブ・エンジンで、“フューチャリングマシン”としてデモランを披露する。初開催のサウンド・オブ・エンジンの主役マシンに相応しい1台だ。
日本にF1という“文化”が根付くきっかけとなった年、鈴鹿で最も速かったのがF187である。
1987年シーズン終盤を席巻したフェラーリ。翌88年には本格的な活躍が期待されたが、ここで速さを発揮したのは、新たにホンダエンジンを獲得したマクラーレン。MP4/4を駆り、セナとプロストが16戦15勝という大記録を樹立することになる。つまり88年のマクラーレンは1敗したわけだが、この土を付けたのも、フェラーリとそれを駆るゲルハルト・ベルガー。どうもベルガーは、記憶に残る勝利が多いように思える……。