トップへ

【鈴鹿に登場】名門アルファロメオの“F1第2期”:アルファロメオ179C

2015年05月18日 18:30  AUTOSPORT web

AUTOSPORT web

1981年最終戦ラスベガスを走るアルファロメオ179C。ドライバーはマリオ・アンドレッティ
1950年5月13日、イギリスのシルバーストンサーキットで、始めてのF1世界選手権レースが開催された。このレースに優勝したのはジュゼッペ・ファリーナ。駆ったマシンはアルファロメオ158である。

 アルファロメオは、F1黎明期の優。特にF1初年度は、当時F1世界選手権の一部に組み込まれていたインディ500こそ落としたものの(エントリーは1台のみで、決勝は出走せず)、それ以外の6戦は、前出のファリーナとファン-マヌエル・ファンジオによって全勝。ファリーナがF1初代チャンピオンに輝いている。続く1951年も、ファンジオをチャンピオンに押し上げ、最強の名を欲しいままにした。

 しかし、アルファロメオは資金難を理由に、この年をもってF1から撤退する。同社のF1ワークス活動休止中にもエンジン供給は行われたが、そのいずれも一時的なもの。本格的なF1復帰は、1976年に開始されたブラバムへのエンジン供給。このコンビは、78年に2勝を挙げている。ちなみに、この2勝のうちのひとつが、“ファンカー”としておなじみのBT46BでのスウェーデンGP(ニキ・ラウダ)である。

 そして1979年から、アルファロメオはワークスチームとしてF1に復帰する。この復帰は、ブラバムからの要求が大きな後押しとなったと言われている。

 アロファルメオはブラバムに、水平対抗12気筒エンジンを供給していた。パワーはフォードDFVより大きく、フェラーリ水平対抗12気筒に匹敵するものだったが、燃費が悪く、その上重かった。さらに当時はグラウンドエフェクトカー隆盛の時代に差し掛かりつつあり、床下の空力を最大限活用するレイアウトを実現するには、水平対抗エンジンはそぐわなかったのだ。そのためブラバムのチーフデザイナーであったゴードン・マーレイ(後にマクラーレンMP4/4をデザインする人物)はアルファロメオに対し、V12エンジンの開発を要求する。

 ただしアルファロメオは自社の水平対向エンジンに絶対の自信を持っていた。そのため、独自にこのエンジンを使うプロジェクトを立ち上げる。そして、アルファロメオのチームとしてのF1復帰が実現する。

 アルファロメオのF1復帰戦は、1979年のベルギーGP。マシンは177と名付けられた。ドライバーは当初ビットリオ・ブランビッラの予定だったが、前年の事故により療養中だったため、ブルーノ・ジャコメリが務めた。初戦はリタイアに終わるものの1戦を欠場して臨んだ第8戦フランスで初完走。しかしトップから5周遅れという惨憺たるものだった。177は当時のF1マシンとしても空力的には劣っているのは明らか。ノーズも太く、ぽってりとしたもの。その上、グラウンドエフェクト効果も重視されていなかった。

 この177の実戦挑戦と同時進行で、アルファロメオはブラバム用に造られたV12を搭載したマシンの開発も進めていた。これが179である。アルファロメオはこの179を1979年のイタリアGPに持ち込み、177と共に走らせることにする。177はブランビッラが、179はジャコメリがドライブした。

 このレースで179を駆るジャコメリはリタイア、177のブランビッラはトップから1周遅れで完走を果たす。しかし、179の方が予選前方のグリッドを確保しており、パフォーマンス面では179の方が優れているのは明らかだった。

 アルファロメオは、続く1980年シーズンを179で戦う。開幕戦アルゼンチンGPで5位入賞を果たすと、第4戦アメリカ西GPでは3番グリッド獲得と、速さを見せる。この速さの源は、このシーズンから加入したパトリック・デュパイエの力が大きかった。彼は開発能力にも秀でており、数多くのテストもこなす。そして179は軽量化を中心にアップデートが加えられ、戦闘力を増していったのだ。結果、14戦中11戦で予選トップ10以内に入っている。特に最終戦アメリカGPでは、ジャコメリがポールポジションを獲得。31周のリードラップを記録したが、結局リタイアに終わった。

 この年の8月、デュパイエはホッケンハイムリンク(ドイツ)でのテスト中にクラッシュし、この世を去る。この事故の原因は、リヤサスペンションのトラブルとされた。1980年のアルファロメオ179は、速さこそあったものの信頼性が著しく不足しており、ジャコメリの2回の入賞によって僅か4ポイントを稼いだだけでシーズンを終えてしまう。そのリタイア原因の多くは、デュパイエの事故と同じく、リヤサスペンションのトラブルだったと言われている。

 続く1981年シーズンにも、アルファロメオは179を継続使用。ドライバーには1978年にワールドチャンピオンに輝いたマリオ・アンドレッティを迎え入れる。そのアンドレッティは開幕戦で4位に入賞。幸先の良いスタートを切る。しかしその後は入賞は遠く、8位止まりというレースが続く。第14戦カナダGPでジャコメリがようやく4位に入賞。そして最終戦ラスベガスで3位に入り、アルファロメオF1復帰初の表彰台を獲得する。

 この1981年には、アルファロメオは179C、179D、179Eという3種類のモデルを投入。179Cは前年まで使用していたモデルのマイナーチェンジ版、179Dは油圧サスペンション投入車、179Eはそのモディファイ版となっている。

 今回鈴鹿にやってくるのは、そのうちの179C。当然、当時は日本GPなどなかった時代であり、このマシンの走行シーンはもちろん、アルファロメオエンジンの咆哮を聞くことができる機会も、日本では実に稀である。また、見慣れた”マクラーレン・ホンダ”のマルボロカラーとはまた趣を異にする紅白のマシンの姿を見るというのも、また一興だろう。デモランの実施は、いよいよ今週末だ。