1990年の日本GPと言って、みなさん何を思い浮かべるだろうか? おそらく、2通りの答えがあると思う。
ひとつは、スタート直後の1コーナーでの、アイルトン・セナ(マクラーレン・ホンダ)とアラン・プロスト(フェラーリ)のクラッシュだろう。この事故によりセナが2回目のドライバーズタイトルを確定させたわけだが、このクラッシュはあまりにも有名だ。
もうひとつは、鈴木亜久里による、日本人初の表彰台登壇であろう。マクラーレンとフェラーリが全滅し、ウイリアムズは低迷期。その中で奮闘した亜久里が、3位を得たのだ。
正直、このレースの勝者は、前述の2件の前に霞み、忘れられがちだ。しかし、非常にドラマが多い上、戦闘力も非常に高いマシンであった。
1990年の日本GPを制したのは、ベネトン・フォードB190である。ジョン・バーナードとロリー・バーンというふたりの天才による合作であるこのマシン。車体には日本のバブル期を象徴するように、オートポリスや三洋電機のロゴが大きく入れられている。エンジンは最新のフォードHB V8。翌年以降、フォードのカスタマーエンジンとして主流になっていくシリーズだが、これを最初に搭載したのがこの前年のベネトン。B190に搭載されたHBは、シリーズⅢと呼ばれるものに進化していた。
この年のベネトンは非常に速く、ネルソン・ピケがカナダで2位、ハンガリーでも3位、アレッサンドロ・ナニーニはドイツで2位、サンマリノとスペインで3位に入るなど、チャンピオンを争うマクラーレン・ホンダとフェラーリを、度々脅かす存在だった。しかも、前年の日本GPでは、ナニーニが自身初優勝を記録しており、その再現が期待されていた。
しかし、日本GPの僅か1週間前に、最悪の事故が起きる。ナニーニが乗ったヘリコプターが墜落し、彼は右腕を切断する大けがを負ってしまう。幸い命に別状はなかったものの、日本GPへの出走はおろか、F1復帰も不可能な状態。チームは急遽、日本GPに出走する代役を探さなければならなくなる。
これで白羽の矢が立ったのが、ブラジル人のロベルト・モレノである。モレノは、F1界きっての苦労人ドライバー。フェラーリでテストドライバーを務めたりしながら、弱小チームを転々と渡り歩いていた。その時点までの入賞回数は僅か1回である。
ナニーニの代役としてベネトンB190のシートに収まったモレノは、上位が次々に脱落していく間にピケと共にするすると順位を上げ、2位でフィニッシュ。これはモレノにとって最初で最後のF1表彰台である。この時、モレノは男泣きに泣いた。
このB190は、前述の通りバーナードとバーンという天才的なふたりのF1マシンデザイナーの合作。バーンが原型のデザインを起こし、バーナードがそれを手直しする形で生み出された。前年仕様車B189は、エアインテークが左右のサイドポンツーン上に配置されるという奇抜なデザインだったが、B190はロールフープ部にエアインテークが配置されるという、きわめて一般的なデザインとなった。また、フロントのサスペンションも、プルロッドからプッシュロッド式に変更。モノコックも下面を綺麗に処理し、床下で発生するダウンフォースにも、配慮がなされている。
搭載するV8エンジンは、V10やV12に比べ、最高速が伸びないという特性があった(その分、コーナー立ち上がりなどのトルクや、ドライバビリティには優れていた)。それを補うべく、ベネトンはウイングを寝かせて空気抵抗を減らし、直線スピードを稼いだ。にも関わらず、コーナリング性能をはしっかりと維持。全体的にバランスの取れたマシンに仕上がっていた。また、タイヤ無交換でレースを走り切れるほど、タイヤに優しいマシンだったということも言える。
シーズンが進むにつれ、ベネトンB190は熟成を重ね、日本GPで優勝。最終戦オーストラリアGPでもピケが連勝を果たし、コンストラクターズランキング3位、ドライバーズランキングでもピケが3位になっている。
ベネトンは翌年、初めてのハイノーズマシンB191をデビューさせ、そして後に黄金期を共に築く、ミハエル・シューマッハーを迎え入れることになる。ベネトントップチームへの第一歩とも言えるマシンが、このB190だったのかもしれない。
ところで、このベネトンB190には、もうひとつのドラマがある。当時のベネトンには、ひとりの日本人メカニックが在籍していた。その人の名を津川哲夫という。そう、現在はジャーナリストとして活躍している津川氏だ。彼はトールマン時代からこのチームに勤めていたひとり。そして、1990年限りでF1メカニックを引退することを決めていた。津川は後年、『F1速報』に寄せた文章で、B190「引退への餞をしてくれた」と語っている。その決断を伝えた時、ピケは無言で立ち去り、「引退」について抗議をした。しかしその翌日には、貴重なワインと、日本GP優勝のボーナスをプレゼントしてくれたのだという。
その津川は、サウンド・オブ・エンジンの当日、モナコGPの取材中だ。しかし、このイベントに来場することを熱望していたという。残念ながらその希望は叶わなかったが、津川の代わりに、その走りを眼にし、そしてその音を耳に焼き付けようではないか。