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『ひらけ!ポンキッキ』の背景にある驚きの音楽史とは? 史上初のテレビ童謡研究書を読む

2015年05月12日 14:11  リアルサウンド

リアルサウンド

小島豊美とアヴァンデザイン活字楽団『昭和のテレビ童謡クロニクル 『ひらけ! ポンキッキ』から『ピッカピカ音楽館』まで』(DU BOOKS)

 大変な労作。一言で説明すると、テレビ童謡の歴史を関係者の証言と資料から描き出した史上初の研究書・資料集となるが、それだけじゃなく、同時にアニメソングの展開史の側面もあり、さらには日本フォーク、ロックの裏面史でもあるのだ。


参考:“踊り”から読み直す日本の大衆音楽ーー輪島裕介『踊る昭和歌謡』を読む


 著者にクレジットされている小島豊美は、フジテレビの児童向け番組『ひらけ!ポンキッキ』のオリジナル楽曲のほとんどを最初期から担当したディレクターである。


 つまり、「およげ!たいやきくん」も「いっぽんでもニンジン」も「パタパタママ」も「まる・さんかく・しかく」も「おふろのかぞえうた」も「カンフーレディー」もあれもこれも、当時、子供のみならず大人たちまでも口ずさみ、今もって歌い継がれている同番組の楽曲群のほとんどは、小島が手掛け、世に送り出してきたものなのだ。


 本書は、小島へのインタビューを軸に、彼の仕事に関わった重要人物への取材も交えて、『ひらけ!ポンキッキ』、そして同番組リタイア後、小島が手掛けたテレビ朝日『ピッカピカ音楽館』を中心にテレビ童謡の歴史をクロニクルに編纂したものだ。


 小島以外にインタビューされているのは、主力作編曲家だった佐瀬寿一、『ひらけ!ポンキッキ』の名物スポットの音響選曲を手掛けた長谷川龍、四人囃子のマネージャー内田宜政、『ピッカピカ音楽館』の楽曲制作を主に引き受けていた加冶木剛(ダディ竹千代)という面々である。


 アヴァンデザイン活字楽団としてクレジットされている聞き手は、田中雄二。日本の電子音楽の歴史をまとめた『電子音楽 in Japan』といった著作、テクノ歌謡のコンピCD『テクノマジック歌謡曲』ほかの監修などで知られる人物である。といえばピンとくる人も多いだろう。


 田中の仕事を知っている人ならば想像がつくとおり、インタビューをもとに構成されているとはいっても、よくある聞き書きの新書のようなお手軽なものではまったくない。データ収集や調査はあらかじめ入念になされており、外堀を埋めた状態で、資料などからでは知ることのできない当事者の証言を引き出し欠落を補完して、完全なものを目指したという印象である。


 小島はあとがきで、本を書かないかという依頼は何度ももらったものの「ディレクターという仕事は何をする人なのか、リスナーにそれを説明するのは難しい」と二の足を踏んできたと書いている。本書は編集者(田中のことと思われる)からの打診で始まったそうだが、これまで踏ん切りのつかなかった小島をその気にさせたのは、田中の、良い意味での偏執気質が手応えを感じさせたからではないかと思われる。


 また田中は、レコード会社や音楽出版社、制作会社といった産業、メディアや楽器といったテクノロジーなど、インフラによって音楽は発展を左右されてきたものだという視点を強く持っている人であり、とりわけその側面の大きいテレビ童謡の歴史をまとめる人材としてドンピシャだったということもあっただろう。


■レコード会社学芸部という部署


 焦点を当てられるのは、レコード会社における学芸部という部署だ。レコード会社には邦楽部、洋楽部という区別があるが、学芸部はそのどちらにも属さない、音にまつわる商品全般を受け持つ部署で、童謡やアニメ、映画音楽、落語などは学芸部が担当する商品だった。


『ひらけ!ポンキッキ』の音楽は、ごく初期を除き、小島が参加してからはキャニオンレコードの学芸部が制作を受け持つことになるのだが、フジテレビ系列の会社がいくつも関わっており、経緯がなかなか複雑である。


 そもそも小島が入社したのはキャニオンではなく、ニッポン放送の子会社でテープ販売会社であるポニーなのだ。音楽テープ市場に新規参入が増えてきて苦しくなったために、ポニーをサポートするべくレコード会社のキャニオンが作られたという流れなのだが、なぜそういう話になるのかというと、音楽原盤の問題が生じてきたからで……という具合に、60年代から70年代にかけての音楽産業のちょっと特殊な構造や地殻変動が『ポンキッキ』楽曲の背景には横たわっているのである。そのあたりももちろん本書では詳述されている。


 要点だけ簡単に記すと、『ひらけ!ポンキッキ』の番組を制作していたのはフジテレビ傘下の制作会社フジポニーで、音楽も最初はフジポニーが制作していたが、74年から小島がキャニオンの学芸部ディレクターとして手掛けるようになった。


 小島は71年にポニーに入社、営業を経て73年に企画部に異動となるのだが、同時にキャニオンの学芸部ディレクターも兼任することになる。キャニオンは70年に設立されたものの業績不振で社員の半数がリストラされており、制作部はポニーとほぼイコールになっていたためだ。


『ポンキッキ』楽曲の制作費は、フジテレビの版権管理業務を行うフジ音楽出版から出ていたそうで、版権と原盤も同社が持っていた。フジ系列にはもう一つ、ニッポン放送が作ったパシフィック音楽出版という音楽出版社もあって、85年に両者は合併してフジパシフィック音楽出版となる。


 音楽テープビジネスは60年代に隆盛したのだが、それは、あまりに閉鎖的だったレコードビジネスの隙を突いて市場を広げたかたちだった。原盤の使用権についてもレコードとテープは別だったため、音楽テープは複数のレコード会社と取り引きすることができた。キャニオンが設立されたのも自社原盤をポニーに提供するのが目的だったのだが、そのへんの事情については本書に当たられたい。


 キングレコードや日本コロムビアは老舗の学芸部を抱えていることで知られていた。彼らから見ればキャニオンは商売敵だが、片やポニーは原盤を貸し出すビジネスパートナーということになる。双方に籍を置く小島は、ポニー社員としてキングやコロムビアの先輩ディレクターらと親交を重ねることができ、そこで得たものをキャニオンのディレクターとして制作に反映することができるという特殊な立場にあったわけだ。新興レコード会社であるキャニオンの学芸部の蓄積はゼロ、小島もまた童謡など子供向けの音楽を制作した経験を持っていなかったという。


■微に入り細を穿ち歴史の空白を埋める


『ひらけ!ポンキッキ』は新しいタイプの教育番組としてスタートし、当初は有料会員を募って、毎月発行されるテキストや絵本と番組を連動させる仕組みになっていた。番組内の音楽も初期は市販はされず、会員向けのレコードとして配布されていた。小島は3枚目のアルバムから関わるのだが、1枚目、2枚目のアルバムはこれら会員向けの楽曲を集めて作られたものだった。


 1、2枚目の作詞に多くクレジットされている高見映は、NHK『できるかな』のあのノッポさんだ。高見は最初期から長年のあいだ『ひらけ!ポンキッキ』の構成作家を務めていたのだ。


 また、この時点ですでに、伊藤アキラ、吉岡治(オサム)、桜井順といった大御所となる人たちが作家として参加している。歌謡曲の作家陣が多く起用されていたことについて、小島は、「子供向けに作ってないですからね。子供は大人になる通過点でしかないという意識があった。子供だって小賢しいから、物事の本質はわかってるわけ」と述べている。


 73年『ママとあそぼう!ピンポンパン』のオリジナル曲「ピンポンパン体操」が260万枚の大ヒットを記録、それを受けて各局で児童番組が乱立し始める。


『ひらけ!ポンキッキ』も75年4月から「今月の歌」という新曲オリジナルコーナーを開始した。小島が制作に本格的に関わり始めるのはここからだ。『ピンポンパン』は『ポンキッキ』より先に放映されていた、やはりフジテレビの子供向け番組なのだが、局内ではライバル関係にあったのである。


 第1弾シングルは、視聴者のお母さんから募った歌詞を岡本おさみが補作詞し、吉田拓郎が作曲した「たべちゃうぞ」。第2弾が「およげ!たいやきくん」で、これが460万枚という超特大のヒットとなる。この売上記録は現在に至るまで破られていない。「たいやきくん」を書いた高田ひろお(作詞)と佐瀬寿一(作編曲)のコンビは、以後「『ポンキッキ』のレノン=マッカートニー」として主戦力となる。


 このあたりから、田中のインタビューは微に入り細を穿つ様相になっていく。曲ごとのデータをあらため、作家や歌手たちのプロフィールや、参加に至った経緯を問い、制作の背景や秘話を聞き出し、歴史の空白を埋めていくのである。


 大衆文化のなかでも、子供向け音楽のようなジャンルはことに軽んじられてきたため、残された資料も限られている。詳細不明の作家や歌手も少なくない。当事者の記憶にだけ留められている情報は、他のジャンルに比してかなり多いだろう。


 たとえば「およげ!たいやきくん」の子門真人の歌は5万円の買い取りだったというのは本当かといったトリビアから、『ポンキッキ』ソングにフォーク系歌手がよく起用されていた理由、クレジットには登場しないが実は関わっていた重要人物の存在などなど、謎や知られざる事実が次々に詳らかにされていく様は圧巻である。


 Charや高中正義がギターを弾いている曲があるというのは初耳だったし、プラスティックスを結成する前の佐久間正英が関わっていたというのもほとんど知られていないのではないか。


 ここ数年で立て続けに復刻された、山下達郎人脈のシンガーである真宮貴子や池田典代が歌唱している曲があるというのも意外だったし、これは『ピッカピカ音楽館』での話になるが、松田聖子の影に埋もれた不遇のアイドル中山圭子(圭以子)が歌唱している曲があるというのも驚きだった。もっとも、この本に書かれていることの大半は知らないことばかりなのですが。


■『ポンキッキ』ソングの尖鋭性


『ひらけ!ポンキッキ』の楽曲をあらためて聴くと、子供の頃にはぜんぜんわからなかったのだけれど、その時代時代の先端とされる音楽を実に素早く取り込んでいたことに気づかされる。シンセサイザーの導入もかなり早くからなされていて、75年の「たいやきくん」ですでにアープ・オデッセイが使われていたという。


 それはしかし、流行に乗るというより、面白そうなことはやってみるという興味本位から実現されていたことだったようだ。佐瀬寿一のインタビューを読むとそれが確認できる。


 佐瀬のインタビューで特に注目されているのは、80年の「おふろのかぞえうた」だ。全編打ち込み+シンセで録音された、クラフトワーク+バグルスみたいな曲で、ハーモナイザーでピッチをびょーんと上げられるボーカルが印象的である。


——「おふろのかぞえうた」のエレクトロニクス導入だって、大きな決断だと思うんですね。
佐瀬 それをやらせてくれる番組だったんです。お金も出してくれて。スタジオを一日ロックアウトしないと、今みたいにプロ・トゥールスがあるわけじゃないから、まずテンポ信号を入れてからですから(笑)。
(…)
——でも、あの詞自体はテクノとは関わりないですよね。
佐瀬 悪ノリですよ(笑)。高田さん〔作詞の高田ひろお〕にいちいち説明もしなかったし。数え歌っていうとさ、すごく古いイメージがあるじゃない。「ひっとつっとせー」って。そういうところを払拭したいなってのがあったと思う。それであっちに逃げたのかもしれない。
——それでドイツのミュンヘンサウンドになると。『ポンキッキ』自体がすごくバタ臭い番組でしたから。クラフトワークとか平気でかけてましたし。ある意味、子供ウケのことを考えずに、大人が楽しめるノリで作ってる。
佐瀬 観る側も免疫ができてたと思うんです、『ポンキッキ』という番組に対して。いきなり何もないところにポーンと出したら、絶対拒絶されるよね。だから抵抗なく、「おふろのかぞえうた」とかが受け入れられたんだと思う。


「元々悪食だから。自分の感性のフィルターに通ったものなら、ギター1本だろうが電子音楽だろうがなんでもいいから」という小島の懐の広さによって、こうした悪ノリの実験意識がスポイルすることなく生かされることで、『ポンキッキ』の音楽は他のテレビ童謡とはひと味違う現代性を獲得できていたということだろう。


■『ピッカピカ音楽館』へ


 85年にフジ音楽出版がパシフィック出版に吸収され、フジパシフィック音楽出版が誕生する。フジパは原盤制作もしており、『ひらけ!ポンキッキ』の音楽制作もフジパのディレクターが手掛けるようになっていく。小島の担当する割合は減っていき、86年の「からだ元気?」を最後に番組から外れた。


 小島は87年にポニーとキャニオンを退社し、それ以前から誘われていた小学館—テレビ朝日の『ピッカピッカ音楽館』の音楽監督を務めることになる。この番組での最大の片腕は、ダディ竹千代こと加治木剛だったそうだ。


 思いがけない名前が出てきて、ええーっ!と驚いたのだが、加治木は、ダディ竹千代&東京おとぼけCats解散後にプレイという音楽制作会社を興しており、『ピッカピカ音楽館』の音楽は主にプレイが手掛けていたのだという。


『ピッカピカ音楽館』は3年間続いたが、小学館の社員が制作に入り込んできて、小島はイニシアチブを取れなくなっていき、小島が抜けると同時に終了した。アルバムは1枚出たきりで未リリース作品がたくさん残されたのだが、本書はそれらのデータもすべて網羅している。


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 本の性質的に紹介に徹するのがいちばんの書評だと考えてまとめてみたのだけれど、たぶんまだ10分の1も紹介できていないだろう。ともかく登場する楽曲や人物の数が膨大で、索引を見るとクラクラする。あの人がこんなところに!?という意外な発見も読者それぞれにあるに違いないから、ぜひ本に当たってみていただきたい。


 ひたすら情報の確認をしているようなインタビュー本編はちょっと取っつきが悪い面もあるけれど、通史+資料集という性格の本であり、一度読んでそれで終わりという類のものではない。立ち読みはほとんど意味がないので、気になった人はとっとと買うのが得策である。(栗原裕一郎)