2015年5月23日と24日に、鈴鹿サーキットで「SUZUKA Sound of ENGINE 2015」が開催される。このイベントには国内外から数多くの名車が集結する。今回ご紹介するのは、ル・マン24時間レースを制した唯一の日本車、マツダ787BのJSPC仕様車である。
1991年のル・マン24時間レースを制したのは、日本から来た派手なカラーリングのマシンだった。それはトヨタでもなければニッサンでもない。広島の中堅自動車メーカー、マツダが世に送り出した、787Bと呼ばれるクルマである。
このマツダ787Bの特筆すべきは、何と言ってもそのエンジンである。通常の自動車用エンジンは、ガソリンを燃焼させることにより、ピストンを動かしで動力を発生させる“レシプロエンジン”と呼ばれるものが主流だ。しかし、このマツダ787Bには、“ロータリーエンジン”が採用・搭載されていた。
ロータリーエンジンとは、ハウジング内に存在する三角形のローターを、ガソリンの燃焼により回転させ、動力を生み出すという仕組みだ。ロータリーエンジンも長い歴史を持つが、燃費面など様々な部分に短所があり、なかなか普及しなかった。市販車においても、長年にわたって採用し続けたメーカーの数は少なく、もちろんレースの世界で使われることも稀だ。
ロータリーエンジンを実用化し、多くの市販車の搭載して長年にわたって発売し続けた数少ないメーカーのうちのひとつがこのマツダである。マツダは、ドイツのNSUと共同でロータリーエンジンの開発に着手。当初はNSUの開発の方が先行していたものの、やがてマツダが主導権を握り、コスモスポーツやサバンナRX-7に搭載されるようになった。実はこのマツダ製ロータリーエンジンは、ル・マンに初めて挑戦した日本製エンジンでもある。1970年に参戦したマシンのうち1台が、マツダのエンジンを搭載していたのだ。
1991年のル・マン24時間レースは当初、排気量3.5ℓの自然吸気エンジン搭載車しか参加できないはずだった。1990年に787でル・マンに挑戦したマツダは、揃ってリタイアを喫し、ロータリーエンジンでのル・マン挑戦の歴史は、これで終わったはずだった。しかし、新規定に沿った形のレーシングカーが揃わず、旧規定のマシンも1991年のレースに参加できるように変更される。そしてマツダは、前年のマシンを改良し、再びロータリーエンジンでレースに臨む。
787に搭載されていたロータリーエンジンR26Bは、1989年に出走していた767B用の13Jをパワーアップしたエンジン。100馬力アップを目標に掲げ、実際には70馬力程度の向上に留まったものの、レギュレーションで定められた車体重量面でのアドバンテージもあり、勝利を目指すには十分なポテンシャルを発揮していた。しかし、車体やチーム体制に、いくつものウイークポイントがあった。そして、ル・マンで勝つためには、24時間で367周走る必要があるとされ、それを達成するためには1周あたり約8秒のペースアップと、4%の燃費向上が必要だと言われていた。1991年に向けてはそれらの問題点を解決。車体の面では後部の剛性向上、リヤサスペンションの改良、そしてカーボンブレーキやテレメトリーシステムを採用し、チームを運営するマツダスピードとマツダ本社の関係も、より強固なものとした。その結果、優勝を狙える性能と体制を持ったマシン、マツダ787Bが誕生したのだ。
この年のル・マン24時間には、ジャガー、メルセデス・ベンツ、プジョー、ポルシェといった、蒼々たる顔ぶれのメーカーが顔を揃えていた。3.5ℓ自然吸気規定の実施が1年後ろ倒しになったものの、その分この規定をクリアしていないマシンの最低重量は1000kg(自然吸気3.5ℓのマシンは750kg)と定められていた。さらに、自然吸気3.5ℓエンジンユーザーには燃料規制は課せられないものの、他は24時間の使用燃料量が2550ℓまでとされた。この燃料使用制限は、現在のF1に課せられている100kg/hよりも厳しいモノである。これらの規制を嫌い、ニッサンやトヨタなど、日本のメーカーは相次いでル・マン不参加を決め、この年のグリッドに並んだ日本車は、最低重量が830kgに規定されたマツダのマシンのみであった。
レースの優勝候補筆頭は、メルセデス・ベンツである。当時のメルセデスは、F1デビュー前のミハエル・シューマッハーやカール・ヴェンドリンガー、そしてベテランのヨッヘン・マスやジョナサン・パーマーを擁して、必勝態勢を敷いてきた。ジャガーも負けじと、デレック・ワーウィックやテオ・ファビなど、F1ドライバーを揃える。プジョーにもフィリップ・アリオーやジャン-ピエール・ジャブイーユが在籍。名前を並べるだけでも、豪華な顔ぶれであることが分かるだろう。
55号車のマツダ787Bは、フォルカー・バイドラー、ジョニー・ハーバート、ベルトラン・ガショーがドライブ。19番グリッド(当年の1~10番グリッドは、自然吸気3.5ℓエンジン勢に充てられていた)から、上位を目指した。
レースはフロントロウからスタートした、3.5ℓ自然吸気規定対応のプジョー2台が逃げる展開。しかし、絶対的なペースに優れるメルセデス・ベンツがこれを追い上げ、難なく交わし、先頭に躍り出る。3時間後には、メルセデス・ベンツはライバル全車を周回遅れにし、まさに独走状態。マツダ787Bは10番手あたりをキープするが、その後徐々に順位を上げ、6時間経過時には4番手に浮上する。
日が変わり日曜朝になると、メルセデスの1台がリタイア。夜明け間近にはシューマッハーとヴェンドリンガーが乗るメルセデスもギヤボックストラブルにより後退し、マツダはジャガーと2番手争いを展開する。トップのメルセデスとは3周の差だ。
レース残り3時間というところで、先頭を走っていたメルセデスがオーバーヒート。ピットに戻って修復を試みるも、エンジンがかからない。その間にマツダ787Bが先頭に躍り出て、そのままフィニッシュ。マツダ787Bが、日本車として初めて、ル・マン24時間レースでトップチェッカーを受けた。このレースで787Bには、トラブルらしいトラブルが発生しなかったのが、最大の勝因だと言えよう。
トラブルと言えば、最後に搭乗したハーバートの走行時、2時間にわたってドリンクボトルのシステムが故障。ハーバートは一滴の水分も補給できぬまま、最後まで走り切らねばならなかった。おかげでハーバートは、ゴール時には脱水症状を起こして救護室に担ぎ込まれ、栄光の表彰台に立つことができず(2011年のル・マン24時間レースの際に、マツダ787Bのデモランが行われたが、この時ハーバートは、1991年に果たせなかった表彰台の頂点に登壇するという、粋な計らいがあった)。
この勝利を受け、マツダは優勝車の787B002号車を永久保存することに決定した。ル・マンからの帰国後はこの002号車もJSPC(全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権)に出走する予定だったが、保存が決定したことでマシンが足りず、もう1台の787Bを急遽製作することになった。それが、今回サウンド・オブ・エンジンでデモランを披露する、マツダ787Bの003号車である。型式こそル・マンを制した787Bと同じだが、ル・マンに比べて走行距離が少ないJSPC専用車のため、スプリント仕様として製作された。そのため、リヤウイングの翼端版の形状は002号車とは異なり、ヘッドライトも無く、緑と橙のカラーリングも反転している。タイヤのサイズも異なる(ちなみに、001号車も個人オーナーが購入し保管しているという。生み出された3台全てが今に残っているとは、奇跡とも言えるだろう)。
この787Bの003号車は、残念ながらJSPCで優勝を挙げるなどといった輝かしい成績を残せてはいないが、マシンの基本設計、そして搭載されているエンジンは、ル・マン制覇の系譜を確実に受け継いでいる。そして今や、ロータリーレーシングエンジンの咆哮を聞くことができるのも、稀な機会。サウンド・オブ・エンジンで共に走行する、F1やCカーのエンジン音との比較を楽しむのも、また一興であろう。