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Acid Black CherryがV系以外にも支持層を広げるワケ 市川哲史がyasuの“資質”から分析

2015年05月10日 19:31  リアルサウンド

リアルサウンド

市川哲史『誰も教えてくれなかった本当のポップ・ミュージック論』(シンコーミュージック刊)

 3年ぶりの新作『L-エル-』がリリースされて2ヶ月以上が経過し、のべ8万人動員を予定する今夏の東名阪フリー・ライヴも既に告知済み、とAcid Black Cherryの精力的な動きも一段落した観がある。


 このABC、<ネタとしてのV系>を極めた金爆とは異なり、一般市民が連想する<イメージそのままのV系>バンドだ。正確に言えばJanne Da Arc・yasuのソロプロジェクトなのだが、2007年の活動開始以来、全国ツアーやイベントなど超精力的なライヴ活動に加えて、全シングル19枚をオリコン5位以内、全アルバム8枚を同7位以内にランクインさせている、まあ勤勉かつ優秀な現役V系なのである。


 解散したり閉幕したり活動休止したり復活したり再結成したりと我儘な先輩バンドたちは、すべからく見習わねばなるまい。本当に頭が下がる。


 私はJanne Da Arc時代のyasuをかなり緊密に定点観測していたからか、今回の新作に関しても幾つかのメディアから取材された。またそれ以外の日常場面においてもここ最近、ABCに関してやたら訊かれる機会が多い。


 なぜこの時代に、<一応V系バンド>Acid Black Cherryがバンギャのみならず、V系とは無縁の一般婦女子にも人気なのか?


 ごもっとも。実は私もずーっと疑問に感じてたので、改めて考えてみる。


 まあAcid Black Cherry当初のコンセプトが「エロ」だし、コテコテのV系仕様の視覚もあって、yasuを元ホストだと信じ込んでる若い女子は少なくないらしい。


 というかそんな、そもそもロックやV系に免疫がない普通の女子たちを上手く捕獲しているからこその、好セールスなのだ。


 それもこれも、<V系らしくない>yasuの資質の賜物だったりする。


 Janne時代もそうなのだが、彼の作品には「重い」「暗い」「変」「過剰」「破滅」「絶望」といった、かつてのV系ならではの特殊な世界観が見当たらない。しかしクリエイター的な使命感や創造欲は、そこらへんのアーティストよりはるかに旺盛だ。


 そしてそのリビドーの正体はロック的というより、思春期に膨らんだアニメ・ゲーム・コミックといったファンタジック・カルチャー的な妄想。


 ゲームとアニメが大好きで漫画家志望だった高校時代、手描きの敵キャラが躍る冒険物TRPG風ゲームブックを自作し、ドラクエをパクったエレクトーンによるゲーム音楽まで付けてたという立派なオタクにとって、当然の表現衝動といえる。


 当時のyasuは、《アニメイト》の店内に入る度に心洗われていたらしい。わはは。


 となるとそんな人種特有の、何事にも細かくこだわる性分が起動する。たとえば過去の作品もやたら丁寧に造られており、ABCの2ndアルバム『Q.E.D.』にも3rdアルバム『『2012』』にも、各々<人は人を裁けるのか><マヤ暦下に見る、人間の生きる権利と生きる義務>がテーマの物語を記したブックレットが封入されていた。新作『L-エル-』も、一人の女性の波乱の生涯を描いたトータル・アルバムだ。とにかく、ぽい。


 遡ればジャンヌ時代の代表作『ANOTHER STORY』に至っては、自作の同名ファンタジー小説まで同時書籍化したほどに、yasuのアニメ&RPG体質は「本物」なのである。


 こうした彼の素質はトータルコンセプト趣味のみならず、<特殊なはずがキャパは広い>という最大公約数性にも表れている。


 元来、RPGがこれだけ普遍的に支持されてるのは、どれだけストーリーの設定や展開が凝ってても、実は誰でも登場人物に感情移入できる互換性があるからだ。と同様にyasuによるコンセプト性も、誰からでも自由に解釈できる類のものだ。


 そして彼が書くラヴソングの詞も、一人称がOLだろうとホストだろうと成立しそうな融通性を誇る。というか、自分が女子目線の楽曲が妙に多い。人気カヴァーアルバムシリーズ『Recreation』の選曲でも、工藤静香・中森明菜・あみん・大橋純子・薬師丸ひろ子・ドリカムなど、女性歌手のベタな持ち歌が目立っていた。


 要するにyasuのメンタリティーが女子と同一というか、ファンタジー文化ならではの<いつも心に少女性>というか、常に<マッチョではない感性>に彩られているのだ。


 自らのファンタジー思春期が育んだ、まだ触れたことのない少女に対する圧倒的な憧憬を出発点に、やがて少女がいろんな意味で強い女になっていく過程を妄想する。その価値観こそが、yasuワールドの基本形に思えてならない。


 考えてみたら、演歌にせよフォークにせよニューミュージックにせよ、日本では昔から<♂が唄う、一人称が♀の歌>が妙に好まれる。無論そこでは、♀の心情がリアルに描かれているはずもなく、あくまでも♂が勝手に想像した♀の心情しか表現されていない。


 しかし、♂は仮想♀で作品を作ろうとするとやたらクリエイティヴィティーがたぎってしまうから、圧倒的な誤解の産物でも面白くなっちゃうのである。


 となればそれが十八番のABCは、自分のちんちんを股に挟んで隠し「いやーん(ハート)」と悶えて女児になりきるクレヨンしんちゃんと、同一線上にあるのかもしれない。


 あらゆる意味で、ゴスや美学の代わりにファンタジー・カルチャーが詰め込まれたV系だからこそ、Acid Black Cherryはストレンジなのだ。


 yasuの未来永劫思春期と几帳面なオタク的性分が、見事な華を咲かせたよ。(市川哲史)