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市川哲史が読み解く、東方神起とK-POPの10年間

2015年05月03日 17:01  リアルサウンド

リアルサウンド

市川哲史『誰も教えてくれなかった本当のポップ・ミュージック論』(シンコーミュージック刊)

 4月2日の日本デビュー10周年記念ツアー@東京ドームで、東方神起の事実上活動休止がアナウンスされた。現在29歳のユンホの入隊がその理由、と噂されている。


(参考:東方神起、東京ドーム公演で披露した10年の集大成 7万5000人のファンと再会誓う


 韓国国民の男子には、19歳から29歳の間で2年間の兵役が課せられる。もう一人のチャンミンは27歳・未入隊なので、もし彼がユンホと入れ替わりで徴用されることになれば東方神起は最長4年間活動できないことになるわけだ。


 一方、その東方神起と袂を分かったJYJも、同じ憂き目を見そうな気配だ。


 2010年以降ずっと元所属事務所&avexとの裁判沙汰で、韓国国内でも日本でも活動が制約されていたが昨年ついに和解が成立。遅すぎたデビューシングルをリリースし、年末には全国ドームツアー6公演を成功させた。しかしその矢先の4月にジェジュンが入隊を余儀なくされ、他のユチョンとジョンスも同じ29歳なのだから、やっと掴んだJYJせっかくの未来も怪しくなってきた。


 そもそもがほぼ同い歳の5人組だから当然なのだけど、日本にK-POPの橋頭堡を築き上げた<東方神起の時代>の完結をまさに実感させる出来事だろう。


 本当にご苦労さまでした――おいおい、勝手に終わらせるか。


 少女時代やKARAといったガールズグループの登場が決定打となった2010年夏、日本は未曾有のK-POPバブルを迎えた。そして明らかにこの年を境目として、<J-POPとしてのK-POP>的前期と<洋楽としてのK-POP>的後期に二分できる。


 そんな「黎明期」である前期とは、BoAと東方神起がK-POPの礎を築いた00年代。日本デビューに際し両者とも、既に韓国でデビューしていたにもかかわらず生活の拠点を日本に移す。つまり楽曲制作も含め、日本での活動に関してはavexにほぼ丸投げされてたわけだ。


 要するに日本人アーティストたちと同じ土俵に立ち、<たまたま韓国出身のJ-POPアーティスト>として勝負した。異国の地で生活する分、ハンディキャップマッチですらあったろう。そういう意味では偉い。立派だ。


 そもそも《五人東方神起》本来の魅力は、問答無用の歌唱力。バックストリート・ボーイズを想定して結成されただけに、5人全員がリード・ヴォーカル可能なスキルを活かしたアカペラ・コーラスとキレキレのダンスという二刀流を、日本の制作陣が作品に上手く反映させたのが最大の勝因だった。


 主旋律から下ハモまで五者五様の声が織り成すコーラスワークが威力を最大限発揮するのは、言うまでもなくバラード曲――だから実際に五人時代の全シングルの三分の一がバラードで、しかも東方神起人気を下支えした「韓流からの主婦層」狙いの<既婚者の恋心>、つまり<不倫のせつなさ>を唄った濃縮ラヴソングを揃えた。
 たとえば“どうして君を好きになってしまったんだろう?”とか。


「せつないものって必ず、もどかしさや踏み込めない理由という壁があるんです。恋には必ず障害がある。たとえば主婦の方には旦那がいる。僕も既婚者だから、その気持ちはよくわかる(苦笑)。つまり東方神起ファンにかなりの数おられる、そういうファンのニーズに僕の経験が一致したんだと思います」


 詞を書いた井上慎二郎の戦略は正しい。どれだけの奥様が東方神起との密会を、勝手に妄想して身悶えたことだろう。


 加えて、「一つひとつ」とか「たどたどしく」とか「少しずつ」など、韓国人が苦手とするサ行やタ行だらけの単語を積極的に増量することで、<ごじゃいます>的発音がそれこそ母性本能をくすぐるチャームポイントとして有効に機能した。もうライヴでバラードが唄われる度に、客席のあちこちから嗚咽が聴こえたのだからたまらない。


 こうしたまさにJ-POPならではの配慮とこだわりが、東方神起を<J-POP仕様のK-POP>として完成させた。


 ちなみにいま思えば、東方神起がブレイクし始めた時期と、たたずまい的に競合するKAT-TUNが赤西仁留学で急降下した時期が重なったのも幸運だった。当時、東方神起に乗り換えたKAT-TUNファンは少なくなく、韓流以外の若い婦女子層を「敵失」で獲得できたのも大きかった。運も味方したに違いない。


 その東方神起が、せっかく<J-POPとしてのK-POP>の最高峰を極めたのに呆けなく分裂しちゃったのは、2010年春。いかにも旧態然とした韓国芸能界っぽい騒動だったが、そこは積極的にどうでもよい。問題はその分かれ方にあった。


 人気者のジョジュン+ユチョン+ジュンスが離脱した結果、今後も東方神起を名乗る残留組がユンホ+チャンミンとは、おそろしく地味な印象しかなかった私だ。その喪失感をあえて喩えるなら、仲本工事と高木ブーの二人だけのザ・ドリフターズ、みたいな。わははは。駄目だこりゃ。


 ところが運は再び味方した。既に<洋楽としてのK-POP>の時代だったのである。


 前述したような前期とは一変し、日本のレコード会社との関係強化を図る一方で韓国プロダクションが影響力を強めたのが後期というか、現在のK-POPだ。


 基本的に韓国オリジナル楽曲で、日本に生活拠点を置かずあくまでも来日。そして海外展開が唯一無二の目的なだけに、「歌詞の意味がわからないと何も伝わらないバラードは、海外では無力」「ダンス・ミュージックならメロディ以外にも、MVを通したパフォーマンスで注目を集められる」と、楽曲は言語を介在しないEDMに特化した。


 極端言えばヴォーカルも音色の一部に過ぎず、とにかく踊れるかどうかが第一義。しかもそれはリスナーが踊れる音楽ではなく、あくまでもアーティスト本人が鮮やかに踊るためのダンス・ミュージックなのだから、ここまでくると潔い。「楽曲はMVのBGM」とまで言い切るスタッフさえいた。そりゃメロディも歌詞もどうでもいいはずだ。


 そして現在にいたるまで<洋楽としてのK-POP>は、性別も所属事務所もアーティストの記名性すらも超えて、どのグループの楽曲か区別もつかぬほどEDM一辺倒で発信し続けている。これはこれですごい、と素直に思う。


 で何が言いたいかというと、ちょうどK-POPが一丸となって<脱J-POP>を推し進めていた時期だったからこそ、《二人東方神起》でも歓迎されたのではないか、と。


 私は偶然、二人東神の日本初お披露目を目撃している。2011年1月のS.M.エンタテインメントのショーケース・ライヴ@代々木第一体育館だ。


 なんか活動休止期間中に鍛えたのだろうか、二人ともパンプアップした肉体を迷彩柄の衣裳で包み、激しく踊りまくる姿はまさに傭兵。JYJ魅惑の三声を失った分、五人時代の楽曲を同じように唄えるはずもない新型東神にとって、<超EDM路線>はまさに渡りに船だったのだ。


 その後も二人東神は<洋楽としてのK-POP>路線を貫き、つい先日の4月27日、東方神起トータルで日本デビュー10周年をめでたく迎えた。と同時に、J-POPから洋楽へと変遷したK-POP激動の歴史をそのまま体現した数奇なグループだった、とつくづく思う。


 この春、音楽誌やらカルチャー誌の表紙巻頭特集で何度も見かけた東方神起だが、10周年記念特集なのに5人時代の写真をついぞ1枚も見ることはなかった。


また昨年暮れのJYJ@全国ドーム公演で、東神時代の楽曲が曲間の鼻歌以外で唄われることもなかった。著作権上、三人は唄えないらしい。かといって二人東神が唄っても、未だに唄いこなせてはいない。悩ましいねぇこのジレンマ。


でも、どこまでも機能的な商品仕様に徹した優秀な産業ポップ・ミュージックであるK-POPにだって、こんなに人間くさい恩讐伝説が一つくらいあってもいいじゃない、と私は心底面白がっているのである。(市川哲史)