4月10日~12日に、イタリアのモンツァで開催されたブランパン耐久シリーズ第1戦。そのサポートレースとして開催されたランボルギーニ・スーパートロフェオ・ヨーロッパシリーズで輝きを放った日本に馴染み深いドライバーコンビがいた。ケイ・コッツォリーノと、道見ショーン真也のふたりだ。
ふたりは3月30日に、ビンツェンツォ・ソスピリ・レーシング(VSR)からスーパートロフェオへの参戦が発表され、ふたりひと組で戦うレースの開幕大会では、2番グリッドからスタートした決勝レース1こそタイヤのパンクなどで総合21位/プロ・アマクラス7位に終わったものの、同じ2番グリッドからスタートした決勝レース2では総合3位/プロアマクラス優勝を成し遂げた。
もちろん道見はヨーロッパのミドルフォーミュラで多くの実績を誇っているドライバーであり、コッツォリーノも日本のモータースポーツファンならその実力は誰もが知るところ。ジェントルマンドライバーも多く参加するスーパートロフェオでは、ある意味“実力どおり”と言える。ただ、コッツォリーノがレースに参加するのは2012年以来。大きなブランクを空けてのレース参戦だ。
2010シーズンの全日本選手権フォーミュラ・ニッポンへのフルシーズン参戦以降、2012にWTCC世界ツーリングカー選手権・最終大会マカオへスポット参戦した実績こそあるものの、しばらく離れていた自動車レースへケイ・コッツォリーノが挑戦を再開したのはなぜだろうか?
●イタリアの英雄、ソスピリの存在
まずコッツォリーノが挙げたのは、チームを率いるソスピリの存在だ。ビンチェンツォ・ソスピリと言えば、かのミハエル・シューマッハーが“尊敬すべきレーシングドライバーのひとり”として挙げた人物としても知られる。実際、ソスピリはカート、フォーミュラ・フォード、フォーミュラ・ボグゾール・ロータス、国際F3000など、通年参戦した全カテゴリーでタイトルを奪い、ベネトンF1チームのテストドライバーを務めた実績をもつ。
コッツォリーノがソスピリのオファーをふたつ返事で受けて、スーパートロフェオ・ヨーロッパ・シリーズにVSRから参戦するのは極めて自然な流れだった。
「イタリア人の血が流れている僕にとって、イタリアのランボルギーニで、同じイタリア人のビンチェンツォが率いるVSRから、プロフェッショナルドライバーとして戦うチャンスをもらえてとても誇りに感じています。しかも、ビンチェンツォは自身のドライバー経験から、僕らと同じ目線で物事を考えてくれるので仕事もやりやすいですしね」
とはいえ一方で、モータースポーツに愛着を持ち、全日本F3からフォーミュラ・ニッポンまでステップアップし、国内トップドライバーのひとりとして活躍していた彼が、なぜ2010年限りで一時的な“逃避”を決断したのかという疑問も浮かぶ。その理由について、ケイ・コッツォリーノ自身の口で語ってもらいたかった。
彼をモータースポーツから遠ざけ、そして今復帰した理由はなんなのか。
●11年に直面したシートの危機。信じられなかった“言葉”
「2010年に、Team LeMansからフォーミュラ・ニッポンに参戦したのはご存知のとおりです。第6戦で4位となり、最終的にはドライバーズランキング10位でした」とコッツォリーノは当時を振り返りはじめた。
「しかし、2011年シーズンに向けて、僕の置かれている状況が微妙になりました。最大の理由は、2009年限りでF1のウイリアムズのシートを失い、1年間の浪人生活を過ごしていた中嶋一貴選手が、11年に向けては国内レースに戻ってくるからでした。10年当時、トヨタの育成ドライバー(T.D.P)としてFNに参戦していたのは僕以外に平手晃平選手、大嶋和也選手、石浦宏明選手、井口卓人選手などが居たと思います」
「でも、もし一貴選手が国内レースに戻ってくるとしたら、誰かがシートを失うことになります。なんとなく、それは僕なんじゃないかなと思いました」
そして事態は実際、コッツォリーノの予想どおりの展開となった。
「フォーミュラ・ニッポン参戦1シーズン目のルーキーとして、僕の残したランキング10位の成績は及第点だったと思います。ただ、僕を2シーズン目も戦わせようとトヨタさんに思ってもらえるほどではなかったのかもしれません。シーズン終了後の11月、12月と僕はトヨタさんからのオファーを待ちました。でも、良い話は聞けませんでした」
「そのうち『資金を持ち込めばどうにかシートを確保できるかもしれない』という話をある人から持ち込まれました。でも、『えっ!? 僕はプロのレーシングドライバーとしてこれからも続けたいのに、お金を持ち込むの?』と思って、やる気を削がれました。『それくらいならどうにか用意できるんじゃないの? どこかのスポンサーを引っかければなんとかなりそうじゃない?』と」
「正直、信頼している人からの言葉だったので僕は耳を疑いました。ちょっと頭を下げてスポンサーをお願いして、それでレースに出るなんて僕の理解の範囲を超えていたからです。あるいは、僕の父親が日本でレストランを何軒も経営しているので、そのお金をアテにされていたのかもしれませんね」
●冷めたレースへの熱意と、父の言葉
ケイ・コッツォリーノはこうした苦境に直面し、自動車レースに対しての意欲が急激に冷めてしまった。日本でイタリアンレストランを経営して成功している父親のカルミネ・コッツォリーノは、当時の息子の考え方や行動に関して次のように語っている。
「考え方が子供だったんでしょう。本音を言えば、僕自身はなんとしてでも彼にモータースポーツを続けてもらいたかった。でも、彼は自分が置かれた状況に納得できなかった。だから止めた」
「それ以降は僕のやっている仕事を手伝うようになり、カルミネ表参道スタンド(http://www.carmine.jp/stand.html)の店長としても働き始めた。本当によく働いたと思う。一日何十万円も売り上げるようになった。でも、彼にはいつかまた新たなチャレンジをして欲しいとずっと願っていた。僕も自動車レースをやっていたし、もし彼が自動車レースを再びやるならばなおさら良いと思っていた」
「あれは数十年前のことですよ。僕がシェフとして日本へ行ってイタリアンレストランを開くと親に決意を伝えたとき、泣いて引き留められました。でも、僕は新たな環境でチャレンジしたかった。そういう背景もあったからこそ、僕は息子にもチャレンジしてもらいたかった。もちろん、彼の今回のスーパートロフェオへの参戦はすごく嬉しく思っていますよ」
●ランボルギーニとともに。歩み始めた第二のドライバー人生
ランボルギーニ・ブランパン・スーパー・トロフェオ・ヨーロッパ・シリーズ開幕戦の結果に関して、ケイ・コッツォリーノ自身は100%満足しているわけではないものの、自分の新たなチャレンジには疑問を持っていないようだ。
「まず、カルミネ表参道スタンドでの経験は貴重でした。接客を通してお客さまへ素直に感謝の気持ちを伝えられるようになりましたし、店長を務めることでお取引先さまとの仕事のやり方を学べました。サービス業に携わることで、人間としてひと回り成長できたと思います。これからはそうした経験も活かして、レースに挑戦して行ければと思っています」
ケイ・コッツォリーノ自身の将来展望についても聞いた。
「ランボルギーニのモータースポーツ部門であるスカドラ・コルセのジョルジョ・サンナさんが、スーパートロフェオ開幕戦のモンツァで土曜日夜に開かれた発表会で、『今後はVSRの活動を強力に支援する』と関係者の前で公言して驚きました。そうした話はシーズン前にビンチェンツォさんからなんとなく聞いていたのですが、実のところ100%は信じていなかったんです(苦笑)」
「サンナさんの言葉を聞いてから、『あの話は信じていなかったので今夜は驚いた』とビンチェンツォに本音を伝えたら、『バカヤロー』と軽く怒られました(苦笑)。僕自身はいま、スーパートロフェオにVSRから参戦するだけでなく、ランボルギーニやスカドラ・コルセからの依頼を受けて、サーキットで実施される各種イベントにもオフィシャルドライバーとして参加しています」
「今後、ランボルギーニのレース活動がどのような形へ発展するのかは具体的には聞いていませんが、少なくとも僕らがより上位シリーズで活動できる可能性をサンナさんから示されたので、いまはその夢の舞台への進出を期待していますし、僕自身もやる気にあふれています」
子供の頃からのF1進出という夢は叶わずとも、ケイ・コッツォリーノはプロのドライバーとして第二のレース人生を歩み始めた。
(Kojiro Ishii)