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【関東大震災の3年後】大正15年頃の東京の映像が凄い

2015年03月24日 19:22  gooランキング

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【関東大震災の3年後】大正15年頃の東京の映像が凄い

どうも服部です。昭和の動画を紐解いていくシリーズ、今回は「Imperial Japanese Capital Tokyo 1926~1927 - After Great Kanto Earthquake Revival Modern City Footage(1926~1927年の日本皇国の首都・東京~関東大震災から復興した近代都市の記録~=著者訳)」というタイトルの映像を紹介していきたいと思います。

1926~1927年ということで、和暦にすると大正15年から昭和2年(大正は15年が最後の年で、大正15年は12月25日まであり、昭和元年は残りの7日間だけ)という、日本を撮影した映像としては、かなり古い部類に入ると思います。

この記事の完全版(動画・全画像付き)はこちら

建設中だと思われる建物の映像から始まります。震災よりわずか3年後、東京の街は復興を続けているところのようです。

ちなみに関東大震災が起きたのは、1923年(大正12年)9月1日11時58分のこと。東京だけで、被害を受けた住宅数は約20万棟、死者・行方不明者は約7万人という、とてつもない規模の災害でした。

下の写真(※見えない場合は元記事にて)は、Wikipediaに掲載されている「京橋の第一相互ビルヂング屋上より見た日本橋および神田方面の惨状」という内容のものです。もちろんこの写真と同じ場所ではありませんが、こんな状態からよく3年でここまで復興しているものだと驚きです。

周囲をなめるようにカメラは動いて行きます。線路も見えます。モクモクと煙を吐き出す煙突があります。見る限りでは、かなり復興しているようです。右手奥に見えるのは東京駅のようです。その前を東京市電(後の都電)が走って行きます。東京駅は1914年(大正3年)12月20日開業なので、開業12年後くらいでしょうか。

駅前の広場で通りがかりの人たちに声がけしている男性がいます。タクシーの客引きのようです。通行人に深々と頭を下げたりと、強引な感じの客引きではないようです。

子供の手を引き、道路を渡る親子らしき姿があります。右手にある大きな建物は、日比谷交差点にあった日比谷常磐生命ビル(後に美松百貨店が入る)かと思われます。

街路樹の背後に人々が集まっているように見えます。市電の停車場のようでした。皆、やって来た市電に近寄っていきます。

現代でも見るような光景なので、市電に乗り降りする客たちを眺めていると、とても90年も前のこととは思えない気もします。

2台の車が通過していきます。前はボンネットバスのようで、後ろから来る方は、後部に樽のような物を積んでいます。よく見ると、水を巻きながら走っているので散水車のようです。未舗装道路の砂塵防止用に活躍していました。

まだまだ現役だった人力車が、道を横断しています。手前には三輪自転車のようなものをこぐ男性が。

商店街のようです。男性は皆、着帽しています。日傘を差している女性がいます。この時代はまだ、日本髪を結っている女性が多かったようです。

次の場面は結構鮮明に映っています。交通量が少なく、のんびりとしています。



ここからお花見のシーンが続きます。静止画だとなかなか伝わりにくいですが、ブランコのようです。奥に見えるのは、複数人が一緒に遊べるシーソーのような遊具みたいです。

池のカモを眺めている人たち。時間が優雅に流れています。

数秒映るこの場面、男性(?)が後ろ向きに進むと、続いて腕を振り回します。テニスをしているように見えます。

ベンチで休んでいる家族。一家でレジャーに出掛けてグッタリするという構図は、今も昔も変わらずというところでしょうか。カメラの存在が気になり、じっと見つめている男性がいます。この場面でも日傘を差している女性が目立ちます。

サクラの並木を歩く人たち。皆、きっちりと正装しています。敷物を敷いてお花見をしている人たちもいます。

いかがでしたか? わずか2分18秒と短い映像ですが、大正末期から昭和初期の日常が垣間見られ、とても貴重な体験となったのではないでしょうか。引き続き、歴史の1ページを紐解いていければと思います。

(服部淳@編集ライター、脚本家)



【動画】「Imperial Japanese Capital Tokyo 1926~1927 - After Great Kanto Earthquake Revival Modern City Footage(1926~1927年の日本皇国の首都・東京~関東大震災から復興した近代都市の記録~)」