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裁判官は地元の人と交流してはいけない?——元裁判官の田沢剛弁護士が語る「素顔」

2015年01月03日 11:01  弁護士ドットコム

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「裁判官」と聞くと、法廷で判決を言い渡す姿から、「マジメで堅そう」という印象を抱く人も多いだろう。法廷以外でのイメージはなかなか思い浮かばないが、いったいどんな生活を送っているのだろうか。元裁判官の田沢剛弁護士に、裁判官の「素顔」を聞いた。(取材・構成/具志堅浩二)


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田沢弁護士の動画はこちら


https://youtube.owacon.moe/watch?v=NMfz2IZYeiI



●へべれけになる裁判官も


年末年始は、忘年会や新年会といった酒の席が多くなるのが一般的だが、裁判官にも忘年会や新年会がある。田沢さんは「へべれけになる裁判官もいました」と振り返る。



田沢さんは、裁判官として1994年から名古屋地裁に2年、広島地裁・家裁福山支部に3年、横浜地裁に3年勤務した。



広島時代の忘年会は、支部全体の大忘年会のみならず、民事や刑事、少年事件などの担当部署ごとにも開催されていたため、一冬で7~8回、忘年会に参加する年もあったそうだ。裁判所の人たちの忘年会というと、高い店に行っているのではないかとも思ったが、結構フツーの居酒屋や焼き肉屋だったらしい。



ただし、裁判官は職員よりも多めに会費を払っていたという。「キツかったですね。仮に一次会で1回あたり1万円払うとすれば、7~8回だと7~8万円になり、さらに二次会に出ればその分も負担しなければなりませんでしたから」。



●仕事は建物の中、交友関係も狭くなりがち


裁判官になりたいと思うのは、どのようなタイプの人だろうか。田沢さんによると、勉強が好きで研究熱心な人が多いそうだが、「希望する人全員が任命されるわけではなく、たとえば、柔軟性のない人と判断された場合などは任命されません」という。



裁判官に任官して10年未満の人は、「判事補」と呼ばれる。判事補は、3人の裁判官による合議事件に加わることができるが、原則として裁判長にはなれない。キャリアが10年以上になれば、任命により「判事」に昇格して、裁判長を務めることも可能になる。判事補は、いわば見習い的な立場だ。



ただし、判事補経験が5年以上になると、「特例判事補」となって、基本的には判事補としての職権の制限を受けなくなり、単独で審理することができるようになる。また、合議事件の裁判長になることも可能になる。「特例判事補」になっていない判事補のことを「未特例判事補」という。



ただ、未特例判事補でも、判決文を書くことがある。田沢さんは、「未特例判事補」時代の思い出として、刑事事件で判決文を書いたことを挙げる。殺人未遂事件だったが、被害者の証言が一貫せず、3人の裁判官で検討した末に無罪とした。「その結論を受けて、判決文を書きました。結局、合議の結果、自分が起案した部分は大幅に削除・修正されましたが」。



そのほか、破産や差押えの決定、逮捕状の発付など、法廷に出ない業務もあるが、仕事の大半は裁判所の建物の中で行い、官舎生活が大半のため、裁判官の交遊関係は狭くなる傾向にあるという。



裁判官にはどんな交遊関係があるのか。田沢さんはこれまでに接してきた裁判官について、「世界が狭く、生活が保証された中で仕事をしているため、1件1件の裁判の重みを感じなくなって、謙虚さまで失っていく」と語る。裁判の重みを感じなかったり、謙虚さを失っていくことについては、「裁判官になるには、少なくとも5年以上の弁護士経験が必要ではないか」と語る。



ただ、田沢さんの場合、余暇も比較的楽しんでいたそうだ。広島時代には、地域のバレーボールサークルに所属。ポジションはセッターで、練習は火曜日と金曜日の午後7時から10時頃まで。リーグ戦では優勝も経験した。「裁判で関わる可能性もある地元の人との交流は避けるべきだ、との考えもあるようでしたが、気にせず活動していました」。



●一つの地域に腰を落ち着けたい


司法試験に合格した当初、田沢さんは裁判官にも、普通の弁護士にもなる気はなかった。民間企業で企業法務のエキスパート(社内弁護士)として働くつもりだったが、内定を得た企業の受け容れ体制が整っていないのではないかと疑心にかられた。



しかし結局は裁判官になった。「最初から弁護士になるのはもったいないと思ったんです」。当時、まだ20代半ば。いろんな経験を積みたいと考え、まず、いろんな種類の事件を経験できる裁判官になることにした。何年か経って裁判官を続けたい気持ちが強くなっていれば、その思いに従うつもりだった。



しかし、横浜地裁時代に裁判官を辞めようと決めた。一つの地域に腰を落ち着けたいと思ったからだ。「広島から横浜に転勤した際、バレーボールサークルの友人たちとの別れが辛かったんです」。転勤するたびに経験する、親しい人々と別れ、転勤先で再び一から新たな人間関係を作ることにも躊躇を覚えた。しかも、同じ関東にある実家では、親も定年を迎えていた。



2002年、神奈川県相模原市に弁護士事務所を開設。回り道をしたが、当初の予定通り、裁判官を辞めて弁護士になった。2005年には新横浜に移転した。



「裁判所の考え方や見方がわかる」など、裁判官時代の経験を活かしつつ弁護士として活動を続ける田沢さん。弁護士になってからの期間は、すでに、裁判官だった期間を上回っている。裁判官時代よりも地域に根ざし、今日も外を飛び回っている。


(弁護士ドットコムニュース)



【取材協力弁護士】
田沢 剛(たざわ・たけし)弁護士
1967年、大阪府四条畷市生まれ。94年に裁判官任官(名古屋地方裁判所)。以降、広島地方・家庭裁判所福山支部、横浜地方裁判所勤務を経て、02年に弁護士登録。相模原で開業後、新横浜へ事務所を移転。得意案件は倒産処理、交通事故(被害者側)などの一般民事。趣味は、テニス、バレーボール。
事務所名:新横浜アーバン・クリエイト法律事務所
事務所URL:http://www.uc-law.jp