秋田県で「もうひとつの農協」と呼ばれている組織がある。日本最大級の産地直送の米販売会社「株式会社大潟村あきたこまち生産者協会」だ。代表を務めるのは、44年前に全財産を賭けて大潟村の干拓地へ入植してきた涌井徹氏である。
涌井氏はかつて希望を胸に大きな農地を手に入れたのもつかの間、政府の減反政策でコメを作れない状況へと追い込まれた。2014年10月30日の放送の「カンブリア宮殿」(テレビ東京)は、迷走する国の農業政策に振り回されながらも、必死に抵抗して日本の農業のあるべき姿を語る涌井氏を紹介した。
八郎潟への入植直後に「減反」強いられる
かつて琵琶湖に次ぐ国内2番目の広さを誇る湖だった八郎潟は、戦後のコメ不足解消のために1964年に干拓、農地にされた。それが現在の大潟村だ。新潟出身の湧井氏が21歳の時、10倍の競争率を勝ち抜いて父母と共に入植した。
夢を抱いて全国から農家が集まったものの、涌井氏が入植直後に国は「減反政策」を打ち出す。コメをたくさん作るための村で、コメを作る土地を減らさなくてはならなくなった。それでも稲を育てていると「青田刈り」を指示された。当時を知る人は、
「青田刈りは、自分の子どもを踏みつけるようなもの」
と振り返った。指導に従わなければ「土地を取り上げる」とまで言われ、追い詰められた農家5人が自殺するという大きな悲劇まで生んだ。
減反の背景には、1942年に施行された食糧管理法があった。食糧の安定供給を目的に、国が農家の作るコメを全て買い取るという法律だ。食糧難の時代には意味のある制度だったが、コメ余りの時代になり全て買い取りでは負担が増した。そこで、農家に対して補助金を出すことでコメの作付けを制限する「減反政策」を採ったのだ。
当時の政策を聞き、村上龍は「すごくイージー。簡単な政策ですよね」と不快感を表した。涌井氏も「国も県も、補助金があるからいいよねと米から逃げた」と批判し、こう語った。
「もしあの時、新たなコメの消費拡大や新しい市場の開拓に動いていたら、『新しい農業』が生まれたと思う」
4人で始めた協会は従業員160人の組織に
反対派は1984年に農事調停を起こし、「農家が自分たちの土地に米を作ってはいけないという法律はない」という判決を得たが、今度は農協から一切の買い取りを拒否された。独自ルートを開拓すると、「ヤミ米」を阻止しようと村の出入り口で検問が行われた。涌井氏は当時をこう振り返る。
「日本の農政、行政、農協から見れば私の評価は犯罪者だった」
どこにも頼れなかった涌井氏たち反対派は、拠り所として「大潟村あきたこまち生産者協会」を設立。契約農家から農協価格より高く米を買い上げ、自社工場で加工し、チラシなどで一から開拓した独自の顧客ルートに販売した。
安心安全な独自の肥料で生産し、無洗米や1合分の個包装など付加価値をつける努力も惜しまず、売り上げを伸ばした。4人で始めた組織も、27年後のいまでは従業員160人、売上げ45億円、個人会員7万人・法人会員7000社に届ける巨大組織に成長した。
一方、国内の米の消費量は、この50年で半分まで減少。この現実に立ち向かうべく、涌井氏は米を特殊な製法でペーストした「米ネピュレ」を開発した。パン生地に混ぜ込むと保湿性が高まり、焼くとモチモチ感と米の甘みが出て、小麦だけより美味しい。
涌井氏の会社では、この米ネピュレの製造ラインを2億円かけて作り、ローソンなどが商品化もしている。涌井氏は「パンを食べれば食べるほどコメの消費が伸びる。米の用途の拡大につながる、21世紀の食品革命」と強気で、5年後の売上高目標を1000億円と掲げる。
5年経ったら「初めて作付面積の集積ができる」
涌井氏は「若者が夢と希望を持てる農業」にしたいなら、生産だけではダメで、生産・加工・販売をすることが必要だと考える。
「コメは販売そのものが違反と言われたが、それでも、農業は生産・加工・販売をしなければダメだと感じていた」
と力強く話した。自分は「日本の農業の未来を作るため」と本気で思って農業をやっており、「極論を言えば『私しかいない』というくらいに思っている」と意気込む。高齢化の深刻度について村上龍に問われると、プラス面を見るように促した。
「5年経ったら日本の農家の8割は引退する。ただ、人が辞めるから農業が滅びると考えるのではなく、初めて作付面積の集積ができる」
単に数字だけを見て紋切り型に対処してきた行政や農協とは、真逆の考え方だ。コメに対する愛情があるからこそ、真剣に農業に向き合っているのだろう。TPPが締結すれば大打撃とも言われる日本の農業だが、米ネピュレなどの革新的な考え方を知ると、抵抗だけでなく乗り越えるための知恵を絞ることも必要だと感じた。(ライター:okei)
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