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「素人の参加で法廷が生き生きとしてきた」 裁判員裁判「5年」弁護士が振り返る

2014年10月19日 12:41  弁護士ドットコム

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国民が裁判員として裁判に参加する「裁判員制度」が導入されてから、今年5月で「5年」が経過した。一般の国民から選ばれた裁判員が、刑事事件の被告人が有罪か無罪か、プロの裁判官と一緒に考える。そして、有罪の場合は、どのような刑にするのか、合議のうえで決めるのだ。


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国民が裁判に参加する制度は、アメリカをはじめ、イギリス、ドイツ、イタリアなど、すでに広く先進国で行われている。裁判員制度を弁護士はどのように評価しているのか。刑事事件の弁護を多く手掛ける萩原猛弁護士に聞いた。(取材・構成/重野真)



●「調書裁判」から「口頭裁判」に戻ってきた


――裁判員制度を振り返ってみての感想は?



「ヨーロッパの参審制とアメリカの陪審制をミックスした日本独自の制度なので、どうなるかと思っていました。しかし、裁判員制度の導入で、裁判に関する他の制度にも良い影響が表れてきたと思います。一定の評価はすべきでしょう。市民参加がシステムを変えたのです」



――具体的にはどのような影響があったのか?



「書面を中心とした『調書裁判』から、刑事裁判の本来の姿である『口頭裁判』に戻ってきたことです。日本の裁判は調書裁判と言われ、法廷は単に、膨大な供述調書・捜査書類の受け渡しの場にしか過ぎませんでした」



――素人である裁判員が入ることで変わった?



「法廷での口頭のやり取りが重視され、検察官も弁護士も、いかに法廷で裁判員に分かってもらえるかということを考えて、プレゼンテーションをする必要性が出てきました。以前に比べ、法廷が生き生きとするようになってきました。



本来、刑事訴訟法は、証人尋問等の口頭でのやり取りを中心とすることを想定していたのですが、裁判官や検察官、弁護士という専門家だけで効率的に裁判を運営するという名の下に、歪んだ状態になっていました。それが、法の素人である裁判員が加わることによって、本来あるべき姿に戻ってきました。



法律用語ばかりの調書ですと、裁判員は理解できません。それを分かりやすい言葉に置き換えて調書を作る必要があります。さらに、単に調書を朗読されるよりは、証人に語ってもらうほうがリアリティがあります。裁判員が、法廷終了後に調書を読むことは考えられません。必然的に証人尋問が重視されるようになりました。



そうすると、検察官も弁護人もいかに証人から有益な証言を引き出せるか、あるいは、主尋問をいかに反対尋問で崩すかという法廷技術を真剣に磨く必要性が出てきたのです。



弁論についても、単に書面を棒読みするのではなく、書面を持たずに裁判員に語りかけたり、パワーポイントやホワイトボードなどを用いたりするようになりました。法廷が本来の口頭裁判の姿に戻ってきたのです」



●子どもの手紙を朗読、涙する裁判員も


――求刑をめぐるやりとりにどんな変化があったか?



「これまでは求刑のときに『懲役○年が相当』ということを弁護人は言いませんでした。実刑となることが確実で、懲役5年を検察官が求刑しても、弁護人は『寛大な処分を賜りたい』とだけ述べていました。



しかし、裁判員裁判では、弁護側も具体的に求刑をします。弁護人が『懲役3年が相当です』などと、必ず言うようになったのです。今まで言わなかったのは、裁判官は2年と考えていたときに、弁護人が3年というと、それは弁護のミスではないかということになります。裁判官が弁護人の求刑より軽くしようと考えている可能性を考えると怖くて言えなかったのです。それが裁判員から、『検察官は求刑するのに、なぜ弁護人はしないのか』ということになり、弁護人も求刑をするようになったのです。



それで、今まで以上に何年が相当かということを、ぎりぎりまで考えるようになりました。これまでは『寛大な処分を』と裁判所任せの部分もありましたが、弁護士もきめ細かな量刑主張を真剣に考えるようになりました」



――被告人の弁護を手掛けたなかで、印象に残っている裁判員裁判は?



「母親が小学生の息子2人を包丁やビニールひもで殺そうとした殺人未遂事件です。母親の弁護人として、執行猶予を勝ち取れたことが記憶に残っています。



母親である被告人は、捜査段階では『完全責任能力あり』として起訴されましたが、それに疑問を感じ、公判前整理手続でさらなる精密な精神鑑定を請求しました。結果は心神耗弱が認められ、検察側も責任能力については主張を撤回しました。検察官の主張や証拠を鵜呑みにせず、事実を探求することの重要性を再認識しました。



また、被告人は、家庭環境の悩みなどからアルコール依存症となり、子供達に手をかけてしまいました。被告人の再生には家族の支えが重要だと感じ、法廷では、被告人の夫と母が『被告人を支えていく』という証言をし、さらに『母親に帰ってきてほしい』と願う子供達の手紙を朗読しました。



最終弁論で、私は『被告人と家族は、この裁判を契機に生まれ変わろうとしています。被告人とその家族の新たな旅立ちに希望の光を与えるご判決をお願いします』と締めくくり、涙する裁判員もいたほどの感動的なものとなりました。口頭裁判の良さがにじみ出た裁判だったと思います」



――今後、検討が必要な点はあるか?



「素人である市民は、有罪・無罪の事実認定のみに関わり、量刑に関しては専門家である裁判官に任せるべきだと思います。有罪・無罪の認定は『疑わしきは罰せず』の原則が重視され、絶対に冤罪者を生み出してはなりません。



検察官が提出した証拠を、市民感覚で常識に従って判断し、その証拠によって被告人が罪を犯したことは間違いないと確信を持ったときに、初めて有罪だと判断できるのです。こういう『無罪推定の原則』に忠実なのは、裁判官よりもむしろ市民たる裁判員ではないでしょうか。



裁判員は、その事件の審理のためにその日だけ集まってきて、新鮮な気持ちで、市民感覚で判断するからです。一方、裁判官は日常的に裁判という仕事をしている官僚です。官僚裁判官は秩序維持に傾斜した判断をする傾向にあります」



――ではなぜ、量刑については市民が決めるべきでないと考えるのか?



「量刑というものは、被告人の生育歴や家庭環境、人格特性などについて、家庭裁判所の調査官やソーシャルワーカーのような専門家のトータルな科学的調査を踏まえてなされるべきだと思います。量刑の審理というのは、法廷のような限られた時間と空間の対立構造の下で、素人が市民感覚で行うのは相応しくないと思います。



量刑に関しては、裁判員は手を引くべきだと考えます。量刑は法廷ではなく、いうならば研究室で、科学的に十分な量刑調査がなされたうえで、法の専門家が判断すべきでしょう」



●有罪・無罪の認定だけをする「陪審制度」に期待


――検察官の求刑超えの判決が出ていることをどう考えるか?



「裁判員裁判でなくても、これまでに裁判官が検察の求刑よりも重い判決を出したことがあります。裁判員制度で目立つようになっただけです。だけれども、実は求刑以上の判決を出すことは違法だとする考え方もあるのです。



これは憲法や刑事訴訟法が規定する刑事裁判の理念から考えた場合です。私はこの考えに賛成です。刑事裁判とは、検察官が『起訴した人間は有罪である』と主張し、弁護人はそれに対し反論し、裁判官は検察官の主張を審査する立場でしかありません。裁判官自ら乗り出し、事実は一体何かということを探るというものではないのです。



刑についても同様です。検察官が懲役5年を求刑した場合、なぜ5年になるかということについての証拠を提出し、こういう事情があると主張します。裁判官はそれが正しいかどうかを審査するだけです。



5年というほどには立証できていないと考えれば、たとえば4年と判決するのは問題ありません。しかし、5年を超えて判決をするのは、検察官が主張もしていないことを自ら乗り出して探り、判断していることになります。これは裁判員裁判であろうがなかろうが、まずいと思うのです」



――今後はどういう方向にいってほしいか?



「基本的には、市民が有罪・無罪の認定だけをする陪審制度の方向を期待します。さらに、現在は重罪事件かどうかで、裁判員裁判か否かに分けられていますが、そうではなく、裁判員裁判を否認事件に限るのも一案です」


(弁護士ドットコムニュース)



【取材協力弁護士】
萩原 猛(はぎわら・たけし)弁護士
刑事弁護を中心に、交通事故・医療過誤等の人身傷害損害賠償請求事件、男女関係・名誉毀損等に起因する慰謝料請求事件、欠陥住宅訴訟その他の各種損害賠償請求事件等の弁護活動を埼玉県・東京都を中心に展開。
事務所名:大宮法科大学院大学リーガルクリニック・ロード法律事務所
事務所URL:http://www.takehagiwara.jp/