8月20日、小林可夢偉に代わってベルギーGPでケータハムをドライブすることが発表されたアンドレ・ロッテラー。日本ではスーパーGTやスーパーフォーミュラで活躍し、世界耐久選手権(WEC)でも大活躍をみせていることから、日本でもその名を知られた存在ではある。しかし、「F1しか見ていない」というファンのために、ロッテラーとはどんなドライバーなのかを簡単にご紹介しよう。
アンドレ・ロッテラーは1981年ドイツ生まれ、ベルギー育ち。フォーミュラBMWを経て2000年に激戦のドイツF3でシリーズ4位を獲得すると、ジャガーF1チームのテストドライバーに就任。2002年にはリザーブドライバーも務めた。しかし、ついにF1デビューを迎えるかと思われた2003年、ジャガーはF1活動を縮小し、レギュラードライバーの座はアントニオ・ピッツォニアのものとなってしまう。
その後チャンプカーへのスポット参戦を経て、ロッテラーは活動の場を日本に求める。NAKAJIMA RACINGから全日本選手権フォーミュラ・ニッポンと全日本GT選手権(JGTC)に参戦。Fニッポンでは開幕戦鈴鹿でいきなり2位表彰台を獲得すると、翌年ツインリンクもてぎで初勝利。タイトルを争った。また、JGTCでもハーフウエットの04年もてぎでホンダNSX-GTを駆り、松田次生とのコンビで初勝利を飾っている。
当時から、ドライでのスピードはもちろんスリッピーなコンディションでの速さは爆発的なものをもっており、日本国内のモータースポーツ界でも大いに注目される存在だった。06年にロッテラーは心機一転、トムスに移籍しトヨタ陣営に加わる。ここでロッテラーは脇阪寿一とコンビを組み、レクサスSC430のデビューウインを果たすと、その年初めてのスーパーGTチャンピオンを獲得。寿一とのコンビで速さに加え強さを身につけ、2009年もスーパーGTでのチャンピオンを手中に収めた。フォーミュラ・ニッポンでも08年以外毎年勝利し、タイトル争いを演じた。
2009年、ロッテラーはスーパーGTでの経験を活かし、コリン・コレス率いるチーム・コレスのアウディを駆ってル・マン24時間にも参戦。この活躍が目に止まり、同じく日本で活躍してきた大親友のブノワ・トレルイエと共にアウディワークス入りを果たした。
2011年、ロッテラーは一気に世界にその名を轟かせる。荒れた展開となったこの年のル・マンで、2号車をマルセル・ファスラー、トレルイエと走らせたロッテラーは、抜群の安定感をみせ優勝。当時、トム・クリステンセンやアラン・マクニッシュらが主役だったアウディ陣営において、一気にエースの名を勝ちとる。この年、フォーミュラ・ニッポンでも悲願の初王座を獲得し、日本の両トップカテゴリーを制することになる。
翌年もル・マン24時間を制したロッテラーは、WEC初年度のチャンピオンに輝く一方、Fニッポン~スーパーフォーミュラにも参戦を継続し、絶えず速さを磨いてきた。今年、スーパーフォーミュラで車体が変わってもその速さは抜群。開幕戦鈴鹿でも不運がなければ、新生SF14シャシーでの初代ウイナーは間違いなくロッテラーだった。
そんなロッテラーは、WECで多くの勝利を収めヨーロッパでその名を轟かすようになってからも、「自分のキャリアを育ててもらったのは日本のおかげ」と公言してはばからない。自身のホワイトとブラックのヘルメットの頭頂には、日の丸を模した模様と“希望”の文字が描かれる。
また、初めて自身がル・マンを制した2011年、東日本大震災に傷ついた日本を励まそうと、ル・マンに日の丸を持ち込み、またトレルイエとともに日本への感謝と支援の気持ちを込めてJAFを通じてライセンス申請を行い、“日本のドライバー”として戦った。トップを走っていたロッテラーのアウディが世界中のテレビ放送に映るたび、字幕に日の丸が出ていたのだ。
日本を愛し義理堅く、爆発的なスピードを持ったファイター。それでいて、日本の男性ファッション誌の表紙を飾ったこともあるイケメン。可夢偉に代わり、F1マシンのコクピットに収まるのは、そんなドライバーだ。