2014年06月14日 16:01 弁護士ドットコム
「犯罪被害と子供達」をテーマに福岡市で開催されたシンポジウム。その第2部の後半、聴衆に語りかけたのは、熊本県内に住む松永まり子さんだ。松永さんの長女は、1998年のある朝、自転車で高校に通学していたとき、無免許・スピード違反の乗用車と衝突し、瀕死の重傷を負った。意識不明の状態から奇跡的に回復したものの、退院後の学校生活や社会生活は苦難の連続だったという。なかでも彼女を苦しめたのは、周りの人々の「頑張ってね」という何気ない一言だった・・・
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松永:みなさま、こんにちは。私の場合は、娘が事件の当事者でした。当時高校1年生、大好きな美術の学校に進学して、「さあ、これから」という時期でした。
娘の救急病院のカルテには「脳挫傷、骨盤骨折、びまん性軸索損傷、出血性ショック」とあります。
私の住んでいるところは、周りがほとんど田んぼです。車と衝突し、30mほど飛ばされて落ちたところは、たまたま前日に耕されたばかりの田んぼでした。それが娘の命を守ったと思っています。もしコンクリートの道路に落ちていれば、おそらく即死でした。
事故後、1ヶ月間の意識不明の状態を経て、意識が戻りました。その後、リハビリを続け、約半年後に高校に復帰しました。復帰前には、学校でも大変気を遣っていただきました。そのときは右ひざが曲がらなかったので、病院と連絡を取って洋式のトイレを用意するなど、準備万端で娘を迎え入れていただきました。
娘はそのときは意識が戻って、普通に動けるような状態でした。けれども、気持ちのなかで「事件前の自分」しかいない。戻った後のクラスは、半年ほど時間が進んでいて、周りにいるのは同じ友達でも、事件前に自分がいた世界と全然変わっていたんですね。
当時、各学年に1つずつ、美術のクラスがありました。事件前には、全学年のデッサンコンクールで、娘が1位を取ったことがありました。自分でも自信があったと思います。でも、事件後にデッサンをやると、周りの子どもたちがみんな上手になっている。一方で、自分には頭と手のつながりがなく、ほとんど描きたい絵が描けない状態でした。
また、脳挫傷の影響もありました。病院では退院時まで、小学校の計算ドリルと漢字ドリルをしていましたが、事故によって計算能力は小学校4年で止まりました。美術コースなのに、絵が描けない。計算も小学生程度の能力しかない。非常に真面目な子だったので、それで学校にいていいんだろうかと、自分を責める毎日でした。
松永:一方、私は介護休暇を取って、入院中はほとんどの時間を病院で娘と一緒に過ごしました。退院して高校に復帰してからも、ギリギリ休暇が残っていたので、学校についていきました。娘は教室にいましたが、勉強についていけない。また、絵も思ったように描けなかったため、保健室に行っていました。
保健の先生は非常に熱心でした。いろいろ配慮していただいたものの、逆に、それが娘には非常に重荷だったようです。ある日「絶対、保健室には行かない!」と言って、帰ってきました。時間が経てば体力も回復するので、ある先生から「これから頑張ろうね!」と言われたんです。
その日の夜、「自分は今、本当に頑張っている。頑張っているのに、まだこれ以上、頑張らなきゃいけないなら、お母さん、死ぬしかない」と言って、泣きました。帰宅後、とがったえんぴつを持って「これで喉を刺したら、死ねるかな?」と言うこともありました。高校のころは、毎日娘が寝てから「本当に生きてるかな?」と、部屋をのぞくような日々でした。
娘が見つけた居場所は、図書室でした。図書室の先生方は、娘がそこにいることを、ありのままに受け止めてくれた。何を言うでもなく、一緒にお昼ごはんを食べたり、本を読んだりしていただきました。卒業まで、娘は、ほとんどの時間を図書室で過ごしたと思います。
学生だと、学校ではテストがあります。娘は、テストというと、小学校レベルの自分が評価されると思い、「絶対受けない」と言っていました。それに対しても、いろいろ考えて、記述式のテストに変えていただき、卒業もできました。
家庭では、娘と2人で、運動も兼ねて、 夕方によく散歩に行きました。散歩に行くと、地域の方に会います。一番嬉しかったのは「こんにちは、どこに行くの?」と。以前と同じように普通の対応をしてくださる方でした。
なかには、悪気はないんですが、私たち2人を見ると寄ってきて「あなたが事故に遭った人ね。よかったね、頑張ってね」と言う方もいました。でも、娘は見世物ではありません。
「命が助かって、よかったね」と言う気持ちはわかります。でも娘にとって、いまはちっともいい状態ではありません。頑張っているのに、気軽に「頑張ってね」と言われた日は、帰ってから泣いていました。
あんまり辛いときは、泣きながら「あのとき死んでいれば良かった」と言うんです。母親として、自分の生んだ子どもが生きることに苦しんでいる姿を見るのは、本当に辛いことでした。
一度だけ、私も死にそうになる経験をしました。でも、私がそうだったら娘もダメになりますから、なんとか立ち直って、今に至っています。
松永:現在、娘は大学進学も果たし、家で美術の制作をしています。ただ、回復はしているんですが、回復すると、その時期の悩みがあります。いまの悩みは、就職ができないことです。
アルバイトもしましたが、一度教えてもらって練習したことも、脳外傷のせいで、その次の機会では全部忘れているんですね。仕事を覚えるのに時間がかかるため、アルバイトもやめてしまって。いくつか面接も受けましたが、真面目に自分の状態を話すもんですから、ほとんど採用されませんでした。
また、恋もしました。結婚の申込みもありました。本当に嬉しかったです。相手の方ととても仲良くしていたので、「結婚もできる、良かった」と思っていたんですが、なんと、娘の方から断りました。
「どうして断ったの?」と聞いたら、「自分は今、家のお荷物になっている。結婚したら、今度は相手のお荷物になってしまう、それはできない」と。娘がそんなことを考えていたなんて、本当にショックでした。
今、娘は、自宅で祖母の介護をしながら、美術の制作をしています。これからもまた、いろいろと悩みが出てくると思います。娘は、就職して給料をもらうことが一人前だと思っています。でも、そうではない「自立」の生き方を見つけていきたくて、来週、娘の小さな水彩画教室を始めてみたいと思っています。
娘の下には、息子が一人います。息子とはいままで、事件について一度も話したことがありませんでした。今回、このシンポジウムがあるので、「事件のとき、どう感じていたんだろう?」と息子本人にたずねました。
そしたら「別に」の一言でした。私はたまたま、実の母と実の妹で同居していて、身の回りの世話は、母と私の妹で事足りていたと思います。でも本当に「別に問題がなかった」のかはわかりません。いまからまた、息子とゆっくり話していきたいと思っています。
事件から16年が経ちましたが、このシンポジウムでお話の機会を与えてくださったことに、本当に感謝しています。娘より先に死ぬのは親ですから、娘の自立について、また息子が娘をどう助けていくべきかについて、話をする機会ができたかなと思っています。今日はありがとうございました。(会場拍手)
梅本:ありがとうございました。最後に息子さんの話がありましたが、事件のあとの息子さんの様子は覚えてらっしゃいますか。
松永:事件のあと、本当に申し訳ないんですけど、息子のことは頭に残っていませんでした。事件当日は、私がちょうど犬の散歩に出ていたときに娘が来て「いってらっしゃい」と別れた直後だったんですね。事件の次の日は娘の16歳の誕生日でした。そのときに「何が食べたいかな」と聞こうと思ったんですけど、そうしなかったんですね。
あのとき娘に聞いておけば、その間に車が通り過ぎていって、事件に遭うことはなかったと思います。「どうして聞かなかったのかなあ」とすごく悔いがありました。それから私、本当に娘から離れられませんでした。
「甘いお母さんだな」と思われたかもしれませんが、目を離したら死んでしまうんじゃないかと思って・・・。入院しているとき、私は小柄ですし娘もわりと小さいので、2人で同じベッドに寝ていました。家には着替えに帰るだけで、本当に悪いんですけど、息子はそのとき見ていなかった、という思いがあります。
梅本:そのとき、息子さんからお母さんに対して、何か言うことはありませんでしたか。
松永:いやあ、だいたい静かで口数の少ない子だったので・・・。何も言わなかったです。中学3年だったので、高校受験もありましたけど、自分のことは自分で決めていましたね。
梅本:ありがとうございます。ここからは、永野さんと松永さんにうかがっていきたいと思います。
事件後、周囲の子どもたちの反応はどうだったでしょうか。永野さんのほうは、いじめられたりといったことが多かったですか?
永野:いいえ、決してそればかりじゃないんです。でも、孫にとっては、気持ちがすごく落ち込んでいた時期でしたから、誰かになにかひとこと言われれば、それに傷いていました。いじめにも遭って「私、もう学校に行けない」と言っていました。
松永:娘は、だいたい図書室にいたので、あまり周囲とは関わっていなかったです。入院中、周りの子どもたちは、毎日のように来てくれました。みんな、本当に娘を心配してくれて。「ふとんがふっとんだ」とか、楽しいことを言ってくれました。そしたら、全然表情がなかった娘が初めて笑ったんです。「ああ、帰ってきたなあ」と思いました。
梅本:学校が始まったあと、お子さんがしてもらって嬉しかったことはありますか? クラスメイトにできることがあるとしたら、どういうことなんだろう、と思うんですけど。
松永:私が嬉しかったのは、散歩に行ったときなんかに、いままで通り普通に接してくれることでした。娘も、普通に接してくれるのが一番だったのではないかな、と思います。
永野:私もそう思います。自然に子どもに対応してくださったり、「大丈夫だよ」という一言で、ずいぶんと助けられるんじゃないかなと思うんです。
梅本:私も支援者の立場なので、カウンセラーとして、できることがあると思うんですね。今回のシンポジウムの第1部で、支援者に対する改善点のお話がありました。永野さんや松永さんが、先生方に配慮してほしかったと思うことはありますか。
永野:私の場合は、学校から本当に頻繁に電話が来ました。週5日のうち、3日くらいは学校に行って、先生方とお話をしていたように思います。当時は必死でしたから。いま考えても「よく行っていたなあ」と思いますけどね。
松永:当事者の性格や受け取り方によっては、支援者のなかにも、話しかけていってほしい人とあまり関わってほしくない人がいます。娘は言語の先生にいろいろリハビリを受けていましたが、どうしても合わない方もいらっしゃいました。
また、カウンセリングを受けさせたほうがいいかなと思ったんですが、娘はおとなしそうでいて、一度嫌ったら嫌う性格です。カウンセリングを受けることで「また傷つくんじゃないか」という思いもあって、結局は受けませんでした。
永野:私の孫の場合、カウンセリングは、中学になったら自分で申し込みをして、月に2回くらい受けていました。本来ならば、本人と保護者に、カウンセリングの先生の指導があるかと思うんですが、私は1回も足を運んでないんですよね。
孫は今、大学生になって、自分も苦労しただけに「苦しい思いをした人の役に立つ人間になりたい」という思いで、福祉の道に入っています。孫は「先生方の指導があったからこそ、今の自分がいる。自分みたいに幸せな生徒はいない」と言っています。
先生方がよく対応してくださったことが、孫が立ち直れるきっかけになったと思いますね。だからやはり、自分から働きかけていってくださる大人の方も必要かな、と思います。
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