トップへ

「学校で言葉の暴力を受け、保健室のお世話になった」(犯罪被害と子ども達・上)

2014年06月14日 16:01  弁護士ドットコム

弁護士ドットコム

記事画像

犯罪に巻き込まれた子どもたちは、事件後、どのような生活を送っているのだろうか。これまで大人に隠れて見過ごされがちだった子どもの「被害体験」に目を向けようと、「犯罪被害と子ども達」と題したシンポジウムが、5月下旬に福岡市で開かれた。


【関連記事:「図書室の先生は、ありのままに受け止めてくれた」(犯罪被害と子ども達・下)】



第1部は、10年前の佐世保女児殺害事件の被害者遺族が登壇し、事件後の苦悩を語った(弁護士ドットコムで詳報を掲載)。第2部では、娘を殺害された永野ひろ子さんと、無免許・スピード違反の自動車にはねられ重度の後遺障害を負った娘を持つ松永まり子さんが、孫や子どもとどのような日々を送ってきたのかを話した。



第2部の司会は、臨床心理士として学生の相談にも応じている梅本育恵さんがつとめ、永野さんと松永さんの話を導いた。その内容を上・下の二部構成で紹介する。(取材・構成/松岡瑛理)



●娘亡きあと、2人の孫と過ごした13年間


1人目の登壇者は永野ひろ子さん。2001年6月、福岡県北九州市内の自宅で、娘の関岡晴美さん(34)が何者かに殺害されているのを、晴美さんの息子が発見した。永野さんは事件以降、晴美さんの家に移り住み、2人の孫の母親代わりとなって、今日まで育ててきた・・・



梅本:この時間は、保護者の立場から、被害にあった子どもたちについて話していきたいと思います。当事者の子どもに対して、家族だけでは十分にケアできないこともあるかもしれません。しかし、その周囲の人間や、子どもに接する教育・法律関係者、対人援助職者、地域の方々などには、もっとできることがあるのかもしれません。



このディスカッションでは、犯罪被害に遭ったとき、子どもたちがどんな状況に置かれるのか、その際、周囲の人ができることやこれから子どもたちに必要なことについて、考えていきたいと思います。



永野:本日は、よろしくお願いいたします。どれくらい私のことをお伝えできるかわかりませんが、娘亡きあと、孫2人とともに過ごした13年間をお話させていただきます。



2001年6月29日、自宅で娘が殺害されました。第一発見者は長男でした。当時、長女8才、長男4才。娘は、苦しく、悲しく、心残りであったと思います。事件後、孫の記憶のなかの怖さ、悲しさ、痛みを支えてあげなければと思いました。母親の存在を忘れさせないためにも、母と過ごした楽しい思い出や作ってくれた食べ物・飲み物、思い出の場所など、繰り返し、繰り返し、話をしたように思います。



「ママはどこにいるの?」と孫に聞かれると、夜空を見上げて「ずっとずっと上のほうだよ。お花がたくさんあって、とてもきれいなところだよ。大丈夫だからね、ママはゆっくりしてるよ。心配しなくていいよ」と孫に答えていましたが、たぶん自分にも、言い聞かせていたのかもしれません。



●何気ない「言葉の暴力」で傷ついた


永野:長男は幼稚園・小学校時代、友達や先生方に支えていただきながら成長しました。中学生になると、言葉の暴力やいじめに遭うこともありました。けれども、それに堪えて、たくましく頑張る力と優しい心を持った少年に成長してくれたと思っています。今は高校3年生で来春、大学生です。



事件当時、小学校3年生だった長女の場合は、さらに大変でした。周囲から仲間はずれや言葉の暴力を受け、何気ない言葉で傷つきました。事件後は母の死について詳しく伝えていませんでしたが、周囲からの言葉で「おかしいな」と本人は勘づいていたと思います。事件から1年後、事件の内容を私が話しました。そのとき、長女は細い体を震わせて泣き崩れ、私と抱き合って泣きました。



私以上に苦しい思いで悲しんでいる長女が私に言ってくれた「宝物の言葉」があります。「おばあちゃんの心のなかにはママがいるでしょ? 私と弟の心のなかにも、ママがいてくれるから、頑張っていこう。ママといつも一緒だよ」。たぶん、私を気遣ってくれたんだと思います。



弟と同様に、妹も中学校初めまで、いじめや言葉の暴力が続いていました。週3日、保健室のお世話になり、廊下を歩くのもやっとでした。両側を先生方に支えていただき、教室へ。「今日は何事もなければ良いが・・・」と願い、電話が鳴るのを怖いと思ったときもありました。



その後、長女はオープンキャンパスに1人で出向き、「私の行く高校は小倉」と決めました。現在は、大学4年生。辛く悲しい思いをしたからこそ、優しく思いやりのある女性になったように思います。



2人の孫は、私の良き理解者であり、相談相手でもあります。孫と生活できた13年、私は本当に幸せでした。私に生きる勇気と孫を託してくれた娘に感謝しています。なにが起きてもおかしくない状況のなか、非行にも走らず、素直に成長してくれた2人の孫にも感謝しています。ありがとうございました。(会場拍手)



●「ママとの思い出がある家から学校に行きたい」


梅本:ありがとうございました。いくつか確認していきたいと思います。永野さんはもともと晴美さん(娘)と一緒にお住まいではなかったですよね。事件のあと、お孫さんと一緒にお住まいになった経緯を教えていただけますか。



永野:最初は、娘の婿のお母さんが孫の生育に関わってくださるのが、一番いいと思いました。ただ、お母さんは私よりも10才くらい年上の方でした。私が娘のためにすることで、孫2人が喜んでくれるならそれでいいじゃないかと、主人からも言ってもらいまして、やっぱり一番いいのは私かな、と思いました。



梅本:もともと、ご主人と一緒に住んでいたお宅から晴美さんの家におひとりで移られたんですね。



永野:そうなんです。主人は、私が孫と住んでいる家に来て、お買物に連れていってくれたりすることもあります。一方で、1人で自炊をしていて、感謝しています。主人の努力と手助けなしでは、私はやってこれませんでした。



梅本:当時、永野さんは、お仕事を持っていらしたんですか?



永野:主人は自営業をしていました。私はその手伝いをしていましたけど、全部手を引きました。



梅本:子どもさん達が永野さんのお宅に行くこともできたと思うんですけど。



永野:あの当時、上の8歳の女の子が「私はママと一緒に生活して、たくさんの思い出がある家から学校に行く」と言って、がんとして聞きませんでした。孫たちを私たち夫婦の家や、娘婿の実家に連れていく考えもあったと思います。でも、子どもたちが「ここから学校に行きたい」と言いましたので。



梅本:事件直後のお孫さんたちの様子は、覚えてらっしゃいますか?



永野:そうですね。当時のこと、私自身は記憶から消し去ってしまいました。苦しいことや悲しいことを消し去ってしまったように思いますね。でも、あの当時の孫2人は、やっぱり笑顔がなかったような気がします。私自身もそうでしたから。だから、子どもたちは、私以上に悲しい気持ちでいたんじゃないかな、と思います。



梅本:事件のあと、永野さんに別のところでもお話をうかがう機会がありました。大変な状況のもとでよくお話をされているなと、すごく印象的でしたけど。



永野:娘の7回忌を終わらせた頃から、娘がいままで生きてきた証として、事件のことを伝えていかなきゃいけないな、と。亡くなった娘のことを語り継いでいこう、という思いになりました。娘も、好きで亡くなったわけではありませんからね。



ですので、そのころから、孫によく話をするようにしました。たとえば、「このニュース、おばあちゃんはこう思ってるんだけど、あなたはどう思ってるの?」と、よく話します。今でもそうですね。



●「いじめは犯罪だ」と声を大にして言ってほしい


梅本:ニュースに出てくるような事件、それからお母さんのことも話すことは、子どもたちにどんなふうに影響していると思いますか?



永野:(晴美さんの事件については)全国ネットでバッと出てしまったから、隠し通せるものではないんです。新聞にも載りますし、テレビでも放映されますし。インターネットでも流れています。それはもう、絶対に隠すことのできない事実ですから。「これはもう、言っていこう」と思いましたね。



梅本:真実と違う情報が子どもたちに伝わることもあるのかな、と思うんですけど。



永野:そうなんですよね。ある情報に対して、「それはおかしい」あるいは「正しい」ということは、私から言えません。でも、たとえば、他のご家庭でご両親が何気なく、あるいは憶測で話したことを、子どもが隣の部屋で聞いていることがあるんじゃないかな、と思うんです。子どもたちはそれを直接、孫にぶつけます。



ぶつけられたことを孫たちから聞いても、私からはうまく伝えられない。こういうことがすべて、いじめにつながっていくと思うんですよね。今、いじめって多いですよね。だからこそ、大人の人達は「いじめは犯罪だよ」と、声を大にして言ってほしいですね。



梅本:事件の犯人は、捕まっていないですよね? 住んでいる地域で勝手な憶測や噂がなされていて、それを面白おかしく話していたのを子どもたちが聞いて、それが今度はお孫さんへの攻撃材料になってしまうという・・・。お子さんたちから事件について、たずねられることもよくありましたか?



永野:事件の当時、第一発見者である長男は「おばあちゃん、かわいそうだったよ。僕がね、『ママ、ママ』って言っても起きなかったよ」「血が出てたよ」と、はっきり言っていました。4歳のころです。



「あれは血じゃないのよ、お水だよ」と言っても、「おばあちゃん、違う」とよく言っていましたね。だからこそ、「本当のことをはっきり言っていかないといけないな」「この子の記憶のなかから少しずつ消し去ってあげないといけないな」と思いました。私の願いであり、娘も、そう願っていたと思います。



梅本:4歳のお子さんだと、だんだん記憶が薄れていってしまうんじゃないかという心配が、きっとあったと思うんですが、事件直後のショックだった記憶だけじゃなく、お母さんとの楽しかった思い出を一生懸命、話されたということですか。



永野:はい。それが正しかったのかどうかは、私にはわかりません。けれども、やっぱりママとの思い出は楽しい思い出として残してやりたいな、という願いがありましたので、そういうふうにいたしました。



梅本:ありがとうございます。



(下編に続く)


(弁護士ドットコム トピックス)