故アイルトン・セナの一番のライバルだったアラン・プロストが、没後20年を迎えるにあたり、自分が記憶にとどめているセナは亡くなるまでの半年の友人としての彼であると述べた。
プロストとセナは1988年、1989年とマクラーレンでチームメイト同士だったが、ライバル関係が次第に激しくなっていき、1989年とプロストがフェラーリに移籍した1990年、タイトル決定上重要な日本GPで接触を喫するなど、その確執が物議を醸した。
一時はセナはプロストの名前も口にせず、直接話すこともなかったが、プロストが引退する1993年最終戦でふたりは和解、その後はいい関係を築いていた。
「20年の節目を迎える心境は他の人々とは違うと思う」とプロストは述べている。
「彼に関する質問には答えられる。彼は並外れた男だった。だが私は他の人々と同じ見方はしていない」
「彼に関して、悪い時のことやよくない思い出は記憶に残していない。(彼の人生の)最後の6カ月のことだけを覚えている。その半年で、アイルトンのことをそれまで以上に知ることができた」
プロストは1993年末に自分が引退したことでふたりの関係が変わったと考えている。
「彼は(それ以前とは)全く違う人間になっていた。彼がどういう人物なのか、彼が時々取る行動の理由を、私は理解した」
「(ライバル同士だったころの)彼を称賛の気持ちを持って思い返す。アイルトンにとっての一番のモチベーションは私に対して向けられていたということを後に理解した。私を倒すことが彼にとってほぼ唯一のモチベーションだったのだ」
「(引退する)93年オーストラリアGPで一緒に表彰台に上った時、わずか数秒後に彼が全く違う人間になったのはそういうわけだった」
「今、私はその時のことをふたりの関係の思い出として記憶している」
プロストにとってF1最後のレースとなった1993年オーストラリアGPではセナが優勝、プロストが2位となった。それまで激しい確執があったふたりだが、セナは表彰台最上段にプロストを上げて肩を抱き、和解を果たした。
「最後のころ、我々は親しい関係になっていた」とプロストは言う。
「不思議なことに、安全性が不十分だという話をよくしたものだ。彼は何度も私にGPDA(グランプリ・ドライバーズ・アソシエーション)をリードするよう頼んだが、私は断った。その当時は非常にプライベートな話もしていた。不思議なことにね」
「そのころから彼が亡くなる日までのことを思い出として心に残しておく。2回か3回会っているし、(イモラの決勝の)直前にも会った。当時の彼はすでに以前とは違う人間になっていたので、私としてはそのころのことだけを思い出したいのだ」
1994年サンマリノGPでセナがクラッシュにより命を落とす直前に何度か話をしたと、プロストは振り返った。プロストはフランスのテレビ局のコメンテーターとしてサンマリノに来ていた。
セナがイモラで走行中に無線でプロストに送った次の言葉は有名だ。「親愛なる友、アラン、君がいなくて皆寂しがってるよ」。
「(イモラの土曜日に)アイルトンに呼ばれて会いに行った」とプロスト。
「日曜には2回会った。話題の中心は常に安全性のことであり、その時の状況に対する不満だった。彼はベネトンが合法ではないと考えていた。そのことにかなりこだわっており、非常に奇妙な感じだった」